大阪日本橋 昔と今 |
私の生まれは千葉の松戸という場所である。「矢切の渡し」や、「二十世紀梨の発祥の地」、そして「戸定館」といったところが有名どころの土地であるが、これらより「市役所にすぐやる課のあるところ」といったほうが理解してくれる場合が多い。場所柄、電気の街である秋葉原も近く、電気関係の道にはまった私としては部品の買出しが便利で、とても良い場所であった。 この日本、電気の街といえば秋葉原だけではない。名古屋の大須、大阪の日本橋も有名である。電気関係に足を突っ込んだのであれば、大須や日本橋という街がどんなところなのかと気にするようになるのは極めて自然なことではなかろうか。そんなわけで、うら若き電気趣味少年がいつかこれら土地へ旅行をしようと決意しようとなんの不思議も無い。 時は1990年、私は大学生としての生活を謳歌していた。バイトで多少金回りが良くなり、また長い休み(さぼりではない)もあるという人生においてもっとも充実したときがとれるであろうこの時期、私は青春18切符を使い旅行をするのが好きであった。安く旅行ができるということも魅力であるが、各駅停車の普通列車はその街々の生活に溶込んでいるためか、その街の生活・匂い そんなものを垣間見ることができ、旅情気分に浸るのにとてもよいのである。そんな列車旅のなか、もちろん大阪日本橋を訪ねたことはいうまでもない。大阪日本橋とはどんなところか、やはり秋葉原みたいな街なのか、いろいろ想像しながら普通列車でことことと西へ西へ。大阪で地下鉄へ乗り継ぎ目指すは日本橋。ホームを降り、地下鉄の穴倉より地上へと上り詰め、見えた景色は.....。期待と不安の一瞬である。うまれて初めて見る街。大きかれ少なかれ、その瞬間には何かしらの感動を覚える。旅行をする理由はこの感動のためかもしれない。 そこは車の行き来の多い大通り、上空にある高速道路、そんな光景が目に飛び込んできた。これといって電気屋さんの看板やらが飛び込んでくるわけではない。都会の街中、そう、ただ都会の街中なのである。初めての土地の地下鉄から地上に上がった瞬間、たいていは東西南北の感覚を失っている。さぁ、西も東もわからぬこの土地で、どちらに歩いて行こうか。360°見まわし、とりあえず人の流れの多いほうへと進路を決める。見知らぬ土地での第一歩。これから見れる風景はすべて生まれて初めて見る景色なのである。わくわくする。はたかれ見れば田舎者のようであるが、どうせここに知り合いはいない。気にすることは無い、見たいものを見たいように見ながら歩くのだ。そして、やがて道は電気街へと姿を変えていた。この付近に住んでいるのならまず、このような風景を写真に納めるなんてことはしないであろう。だが私は旅行者なのである。地元人とは違い、ひょっとしたらもう二度とここにはこないかもしれないのだ。そう思うと、今見たこの風景を写真に収めたくなる。きれいな風景とかそういうものではない、ただ今見ている風景を、なにも飾ることなく写しておきたいのだ。
そして、それから時が流れる ・ ・ ・ 12年
12年後に再び同じ場所を訪れるとはなんとも不思議である。12年ぶりの大阪日本橋。あの、初めてこの場所を訪れたときの記憶がよみがえる。そうすると行ってみたくなるのは、昔写真に収めたあの場所。さて、今はどうなっているのか。ここは観光地ではない。普通の街なのである。街は時代とともに変わる。街は生きている。だからこそ10年たった今、同じ場所から見る風景がどのように変わっているのかを見るのが楽しみなのである。
さて、長い長い文書の前置きに付き添っていただき大変恐縮である。そんなこんなで大阪日本橋、今と昔の写真比較、はじまりはじまり。
これは日本橋五階百貨店。平屋なのに5階ったぁどういうこったというのが初めて見たときの感想である。その五階百貨店、ずいぶん変わってしまった。看板は平面的に成り、面積も減っている。なんとも寂しい限りである。 |
|
90年3月31日撮影 いかにもごちゃごちゃした感じになんともいえぬ趣を感じさせる五階百貨店。日本橋五階百貨店の看板は立体的ではあるが、なにか古さも感じる。そして「まいど」のカラフルな文字。立体文字の古臭さと「まいど」のカラフルさ、そして雨という天気が微妙な調和をなし、これこそ五階百貨店という雰因気をかもしだしている。 |
|
02年9月22日撮影 なんとも寂しくなってしまった五階百貨店。存在感が薄れ、これがあの五階百貨店かと目を疑ってしまった。電光掲示板とちょっとおしゃれな街灯が新設されており、時代の流れを感じる。なお、10年前と同じ場所に似たような軽トラックが止まっている。これだけは12年間かわらなかったのであろうか(この軽トラックが12年前と同じ物なのかは不明である)。 |
そしてこちらは日本橋のメインストリートにある歩道橋の上から撮影したものである。10年前に比べ、アーケードに電光掲示板、そして看板はパソコン関連がメインと、時代の流れを感じる。 |
90年3月31日撮影 まだまだ一般電気製品が主力であった時代。この後、どんどんパソコンの街へと変わっていくのであろう。 |
|
02年9月22日撮影 パソコンの街へ、そしてクリエイターの街へと変貌する大阪日本橋。アーケードには電光掲示板が多く新設されていた。 ちなみに写真左のユーターン禁止の道路標識、「ここから」という文字が無くなっている。 |
さて、1990年、大阪日本橋ではどのようなものがどのくらいの値段で売られていたのであろうか。当時、道端でもらったパソコンディスカウントショップの広告を、写真と共に保管してあったので、ちょっとそのなかからかいつまんでみると PC9801RX2 定価 \338,000 => \特価奉仕中 PC-98DO 定価 \298,000 => \188,000 PC-386LS-STD 定価 \538,000 => \超破格奉仕中 マッキントッシュ各種 20%〜30% OFF
FM-TOWNS-1S セット 定価 \45,7800 => \285,000 X-68000 EXPERT'HDセット 超破格奉仕中
ハードディスク SR-40(40Mバイト) 定価118,800 => \89,800 SR-80(80Mバイト) 定価168,000 => \130,000
CPUは286や386系、HDDは100Mバイトもあればすごい!、ソフトは、一太郎やP1.EXEの時代。なんとも時代を感じる。ちなみに私はP1.EXE派であった。それはともかく、いかにパソコンが高価であったかがよくわかる。
たった10年、されど10年である。この街において、残るものは残り、生まれ変わるものは生まれ変わる。さぁ、いまから10年後、日本橋はどのように変わっていくのであろうか。2012年、また訪れたいものだ。
おまけ もうひとつ1990年代の大阪日本橋の写真。 |
|
90年3月31日撮影 これも大阪日本橋。今回同じ場所を撮影するのを忘れ、しまったと後悔。 まだまだフェンダーミラーの車が沢山走っており、時代を感じる。 |
ps 今思えば、子供のころ、秋葉原の街も写真に収めておけば良かったと思う今日この頃である。
|