1997年12月 嫁さんと
高松駅すぐ東隣の玉藻公園がそうです。 艮櫓と月見櫓が現存し、明治のはじめごろまで南蛮造りの三層五階の天守があったそうです。
かなり大きな天守台なので、もし現存していたら大型の天守だったでしょう。月見櫓は城内より場外からの方が全容が観れます。
松の木とのマッチングがとてもナイスです。 讃岐松平氏は、水戸徳川氏の姻戚関係なので、水戸市と高松市は姉妹都市なんだそうです。
1997年12月 嫁さんと
ここは石垣がすごい!! 扇の勾配と呼ばれる曲線のきれいな高石垣が、らせん状に三、二、本丸と続いています。
下には広大な内堀も残っていて、天守も現存天守で12城の中に入っています。大型の枡形の大手門も残っています。
これだけ立派な遺構があるのですが知名度はいまひとつですね。小型の天守と石垣では、一般ぴーぽーにはインパクトないかなぁ〜。
2009年12月 家族で
淡路島とセットで見てまいりました。ここの石垣は結構野面ぽっくて幕末まで続いた城郭としては貴重であると勝手に思っています。
標高60m上にある本丸は中世山城を彷彿させるには十分。
書籍では下の御殿付近の堀しか紹介しないがこんな遺構があったことに感動して★★なのだ。しかし蜂須賀家はテレビであまりフィーチャーされないなぁ。
長宗我部もそうだけど四国は受難であると感じた旅でした。
1997年12月 嫁さんと
駅からかなり遠い(30分弱かな)ところにあります。 本丸、二の丸が残っていて立派な内堀も残っています。
櫓が3つほどと復元されていますが、天守は模擬天守らしいですね。
この五層六階の天守がやけに背高のっぽで、上から一気に階段で下に降りると目が回ってしまいました。 何かひとつでいいから櫓、門が現存していればいいんですがねぇ。
1997年12月 嫁さんと
道後温泉のすぐ近くにある道後公園がそうで、加藤嘉明が松山城を築城するにあたって廃城になりました。
今はきれいに公園化され、丘全体に木々や花が植えられています。丘の下に水堀の遺構が残っていますが、ただの公園の池のようで、城の遺構には見えません。
丘の上には展望台があり松山城がきれいに見えます。
1997年12月 嫁さんと
ここはいいですね。山頂にたくさんの櫓や門が現存、あるいは復元され、天守閣も櫓や小天守とくっついた連立式天守になっています。
敵を攻撃するために工夫された縄張り、門、塀は、その存在の意味がちゃんとあるので感動です。
天守からの景色も最高で、さすが三大平山城ですね。 マニアならロープウェイなど乗ってはなりません。競技場裏の黒門跡から、二の丸庭園経由、大手門目指して歩きましょう。
197X年XXXX
おもいっきり小さいときに親といった覚えがあります。よく覚えていません。
2002年11月 家族で
アンパンマンミュージアムとセットで行ってまいりました天守階段で娘が落ちて大泣きするわ、最上階の回廊で娘達がふざけて走り回るわ大変でした。
夕方でしたのでほとんど客がいませんでしたが、意味深の中年女性一緒でその女性は高知城の後はタクシーを拾い、ドライバーに桂浜と指示したのが聞こえました。
城よりその女性が印象に残っております。
2002年11月 家族で
アンパンマンミュージアムとセットで行ってまいりました。坂本竜馬記念館の近くにあり遺構らしきものはもとんど見当たらず
記念館駐車場端の小さい岡に天守跡の看板がありました。
2002年11月 家族で
アンパンマンミュージアムとセットで行ってまいりました。この長宗我部の城は私にとってこの旅のメインで、嫌がる嫁さんを説得するのに骨を折りました。
城内でも娘達にもブーブー言われましたが一人駆け足で一通り遺構を見てまいりました。
ここの特記すべきところはやはりその土地の利でしょうか。山頂からは東南西に高知県の容姿を彷彿させるように展望が広がります。
1993年10月 嫁さんと
櫓が二、三、現存しています。 幕府に遠慮して天守閣は建てられませんでしたが天守台は残っています。
ここからみる市街のながめは、福岡ドームが異様な大きさを誇っています。
でもそんなに高いところではないので眺めはもう一つかな? 横には大濠公園の大きな池があり、平和台公園も丸内にあってさすがに広大な城址です。
海岸沿いには元寇防塁がある情報(昔の情報)があったのですが、旅人には分かるはずもありません。
2022年5月 嫁さんと
平和台球場が綺麗に無くなってグランド跡を綺麗な芝生で再現していてビックリ。外野跡から鴻臚館跡が発掘されていてこれまたビックリ。
綺麗な建物内にオリジナルの発掘現場復元が観れます。ちなみに鴻臚館は大陸からの客人をモテなす迎賓館みたいなものでしょう。
今回はホテルも近かったので、大濠公園含めて一周ぐるりと歩きました。南側は北側と違って水堀は無いです。
南側靖国神社隣に大きな皆様のNH〇福岡放送局があり、朝の天気予報で流れる福岡の中継はこのビルから公園を撮ったものであると分かり妙に感動しました。
2022年5月 嫁さんと
嫌がる嫁さんを運転手にしてあっちいけこっち行けと見学は一人ですませ嫁さんは車で待機。ナビのおかげですねどこまでもたどり着けちゃいます。今津と生の松原地区に行きました。
ともにオリジナルは埋め同様な石を積んで復元しているみたいです。県庁近くに日蓮宗系の法人施設の元寇資料館があり予約して入ることが出来ます。
古びたモンゴル兵の鎧兜の展示がありました。近くに立派な亀山上皇の立像があり大きな台座には敵国降伏の四文字がありました。国難にひたすら祈祷されていたそうです。
こんな銅像があることは全然知りませんでした。
2023年5月 家族で
佐賀もそうなのですが、この辺の筑紫平野は高低差が極めてなく有明海に続く独特の雰囲気がありますな。
運河で有名なこの地の中心は城跡ではなく、旧藩主の立花邸であり洋館と御花と呼ばれる日本家屋造りの建物と庭園の松濤園。
庭園を望む母屋には今でも、消防士のヘルメットみたいに金塗の兜がずらっと100個ほどズラッと掲げており盗まれないのかと余計なお世話。
敷地内の立花家資料館には、宗成養父の鬼道雪が雷を斬ったという雷切丸や、宗成所有の鎧兜など立花家所有の展示物がありました。
女城主にもなった鬼道雪に娘、ァ千代を娶った無双の戦上手でもあり、関ヶ原敗戦後、旧領の柳川に戻った唯一の大名立花宗成を大河ドラマにと自動販売機でPRしてました。
天守台土塁が少し離れた中学校の高校の間にあり専用通路で一般も中に入れる配慮がされております。五層天守閣が明治まであったそうな。
解せないのは御城印がこの柳川城ではなく北に10kmほど行った筑後市川の道の駅物産店で販売してありました。なにか利権があるのかな。
2024年12月 家族で
北九州空港から最寄りの城を漫然と探していたらありました神籠石。ネガティブなこと言う女達を黙らせて決行しました。
車で近くまで行けるのか心配していましたが全然大丈夫です。最先端の駐車場に木箱に入った綺麗なパンフレッドをゲットし、
遊歩道も綺麗に整備されてものの数分で一番遺構が残ってる中門跡にでます。所謂大陸系の城壁のイメージですね綺麗に石が積まれて排水溝も確認できます。
戦国時代の野面積みよりもこちらの方が綺麗に加工されている気がしないでもない。白村江で日本に来た百済の技術者のおかげでしょうか知らんけど。
ここからすこし上に登ると北側は開け絶景です。京都平野(みやこへいや)と大胆な名前だなと思ったら豊前国府が麓にありました。
さらに奥に行くと景行神社なる簡素なお社があり、その奥には小さいながらも古代のものとされる建物の礎石群、いつの時代も大事にされたみたいですね。
山を降りたら偶然みつけた前出の豊前国府跡を見て、すこし東に走ると稲童掩体と呼ばれる軍用機の格納庫が工業団地の中の雑木林にひっそりとあり、
垂直尾翼を模った空間が独特なアイコンでオーラを放ってましたね。この辺は戦時中に滑走路含む軍施設が点在していたようです。
2024年12月 家族で
これで現存、復元、復興の属性に関わらず名だたる天守閣は全部制覇で何だか寂しい感じがします。
小田原城同様かなりの容積も高さを誇り、最上階が膨らんだ南蛮造りではあるものオリジナルは破風のない塔層型であり、
派手な破風はこれはこれでとっても見栄えがして良いですね。
城の西側にあんまり書籍やネットで見ない三層の月見櫓にはビックリ。所見が福山城伏見櫓にそっくりであり、
詳細を知りたくていろいろアンテナ張りましたが、絵図による復元なのかイメージなのかそれとも模倣したのか分からず、
最近まで漬物屋だった中にも入れずますます真相は分からない。
東側の下屋敷跡に小倉城庭園はなかなか立派な母屋が再現され、庭園の池がすり鉢状の底に配置された池泉回遊式と言われるもので、
池を挟んで天守閣を望むととてもフォトジェニックで素晴らしい。
ですが母屋の北側がいただけない。天守閣と同等の高さを誇る商業施設リ〇ーウ〇ーク北〇州のビルが迫っており、
しかも母屋裏側の部分は真っ赤な奇抜な意匠(某国営放送)でいやはやなんと言えばよいのか...
また、天守閣堀を挟んでの北の丸にある神社の関連施設と思われる建物が、中途半端に櫓を模して貴重な石垣の上に鎮座しているではありませんか。
なんともこの城は不思議な感じがしますね。
1993年10月 嫁さんと
町の一番奥の海沿いの小山にあります。 天守の裏は海で小さな島がすぐそばにありました。
おおきな模擬天守なのですが、お化粧直しの工事の最中で中には入れませんでした。
1993年10月 嫁さんと
バスの時間があわなかったので、行き帰りとも呼子から小一時間歩きました。 おかげで嫁さんはバテてしまいました。
巨大な石垣と、まわりにたくさんある大名屋敷跡が、秀吉の権力の大きさをあらわしています。
歴史マニアにもお勧めの城です。 天守台から海の眺めが最高に良いです。 黒沢映画の"乱"の撮影で使用されたそうで、城址のとなりに大きな博物館を建設中でした。
2022年5月 嫁さんと
昔流行った自虐ソングで興味を惹かれ何時かは行きたいと思ってた城です。現存の鯱の門横に幕末時に活躍した鍋島直正の銅像がありその裏にカワイイN〇Kのビルがありました。
県庁所在地にある〇HKのビルの規模はその都市の規模と極めて強い相関にあると思うな。本丸内に御殿を半分ぐらい復元した建物が本丸歴史館になってます。
この城の魅力は本丸、県庁、佐賀テレビ、図書館、3つの学校等含めた住宅街ごと、外堀の類になるのでしょうかちゃんと水を湛えている堀池でほぼ囲まれている事が驚愕なのだ。
申し訳ないが九州でも一番小さな県になってしまったのは佐賀の乱の影響が大きいと勝手に思っています知らんけど。夜の駅前は非常に暗かったです。
2022年5月 嫁さんと
ここに載せるか迷いましたが堀や柵など復元され礎石跡からその規模を推定した立派な主祭殿が威容を誇り、エントランスからみた遠景は戦国時代の物と遜色ないのだ。
城好きは合わせて必ず見学すること。
1993年10月 嫁さんと
大村駅からかなり歩きました。 海沿いの丘に立派な石垣が残っています。 天守台はなかったと思いますが、この城は船付き場の遺構が残っているので有名?です。
小藩ではめずらしい戦国から維新まで大村家が守り通した城です。
2014年8月 家族で
小さいころから最も縁遠いと感じてた天守閣は、七万石には過ぎたる異様で中はキリシタン関連の展示が中心でした。
塔城口で仮装のサービスやってて赤い忍者のねーちゃんにすすめられ政宗か幸村かで迷ったがせっかくなので天草四郎に扮装し、写真をLINEに投稿し親戚縁者に大ウケ。
本丸南東からのメジャーなアングルは昔の苔むした写真から垢抜けた感じがよく、掘も立派で二の丸までちゃんと残っていました。
二の丸掘底の小さい運河はオリジナルか?そのまま下級武家屋敷跡へ400mほどの路地の真ん中に生活用水路がまだ残っている普賢岳からの水は今でも豊富なのだ。
2018年11月 嫁さんと
震災後なので中には入れませんが小天守が足場で囲まれて大きなクレーンが隣接していました。中から巨大なロボットが出てきそうで物凄くかっこいい。
石垣が崩れ塀は倒壊でしたが櫓が算木積みで持ちこたえてる姿に畏敬の念。よく見る宇土櫓からのアングルは最高です。
西南戦争で城に籠った政府軍司令長官谷干城の銅像があり失礼ながらあまり見聞きしない銅像であり明治以降の軍人は珍しいなとしげしげと見入ってしまった。
2023年5月 家族で
大小天守の入場可能と特別見学通路で今しか見れない眺めがあること、〇ンピースのキャラ銅像で阿蘇とセットでやってまいりました。
二の丸御門付近は崩れた石垣はモルタルで固められ、前回辛うじて倒壊を免れた戌亥櫓が影も形もありません。
この辺の石垣も以前と比べ草木が御生い茂り野に回帰の状態、西出丸に仮設プレハブが立ち並び倒壊した建材が保管され、
宇土櫓の解体修理の足場構築用に堀底をコンクリートで固めてました。耐震工事を加えて蘇った大小天守はすごい観光客でしたが、
平成復元の本丸御殿大広間や数寄屋丸二階御広間櫓の損傷がそのままで、算木積みで倒壊を免れで話題になった飯田丸五層櫓は完全に解体されてました。
東竹の丸にある重文の櫓群が落ちないように内側からワイヤーで引っ張ってる現実は大変厳しく、ゼネコン〇林組が請け負った復旧工事は20年、30年と言われますが、
是非 ALL JAPANでと思いますが難しいですよね。買った御城印をどこかに置き忘れてしまったので、また来いという啓示だと捉え節目で行くと決心しました。
2018年11月 嫁さんと
八代から球磨川沿いに走る肥薩線の特急でやってきたのだ彼方の人吉城へ。帰りの電車時間に合わせておびただししく見学した城は
球磨川のほとりの大規模な城で本丸までの高低差はあまりないものの大規模な石垣で縄張ってます。紅葉が綺麗でした。
このあたりの球磨川は流れが穏やかなせいかカヌー教室をやっていました。
2018年11月 嫁さんと
江戸幕府から特別に一国二城制度を許可されたずるい城であるが水堀が生える立派な平城なのだ。征西大将軍懐良親王をまつる八代宮が鎮座しております、
懐良親王にまつわるエピソードやグッズを期待しましたが皆無でした。帰りの駅までのタクシー運転手のご老人が小さいころ御当地大物演歌歌手をいじめていたとウソみたいな話。
2018年11月 嫁さんと
宇土駅からタクシーに乗ってやってきました。戦国期までの堀、柵や城門、建物跡のオブジェがある中世宇土城跡と近くには近世宇土城跡があります。
こちらは関ヶ原で西軍が負け天草島原の乱後に徹底的に破壊されたため、若干の高台に本丸跡と思わしき広場に小西行長銅像がありました。
遺構的には中世城の方が見ごたえあるかな。例の宇土櫓がこの城の天守閣だったというマニアの常識は伝承の域を越えないようです。
2023年5月 家族で
きくちじょうと呼びます。菊池城とセットで阿蘇観光の帰り寄ってきました。
真新しい史料館でなんと御城印をタダで貰い、ボランティアのお爺さん曰く、
この古代城は文献には出るものの場所が特定できず、30年ほど前に遺跡が見つかり一気に調査が進み整備されたそうです。
鞠智と菊池は関係あるのかに対しては関係ないとキッパリ。いやいやそんなことは無いと思うけどな。
白村江後の大陸からの侵攻に備えた西日本一帯にある神籠石や古代城の一つで大宰府の御詰城だったそうです。
八角形礎石跡がありユニークな模擬鼓楼はこの城のアイコンですね。
復元兵舎の中には全国の神籠石、朝鮮式山城など紹介するパネルがありシュールな世界に浸っていました。
先出のお爺さん、岡山の鬼ノ城が桃太郎伝説があることを知らなかったので教えてあげました。
2023年5月 家族で
菊池市の中心にある菊池神社のある小山が菊池本城とされています。平安時代から戦国時代まで26代続いた名門菊池一族ですね。
人気のない古い歴史館には貴重な史料がいっぱいで、絵、書、元寇モンゴル軍の甲冑やら南北朝時代の古い甲冑から戦国期の物まで。
全盛はやはり懐良親王を要して北朝と戦い大宰府占拠し征西府となった15代武光の代でしょうか。物凄い古くて痛みの激しい軍配に興奮だったのだ。
初代は平安時代の刀伊の入寇で戦功のあった人物ですよ。戦国期に衰退、分散し本家断絶になった家系ですが中央ではマイナーなので残念です。
山の麓には広大な広場があり物産店と中央には大きな馬上の武光像を見て、皇居の楠正成、山形城の最上義光像を思い出しました。
大分は小藩ながらも城下町が点在し、もちろん温泉ありの石仏も沢山。魅せられてしまったな。
2022年11月 嫁さんと
かつては半島の先端にあっただろう高台に模擬天守が建っております。正直にいうとここは城より城下町が面白い。サンドイッチ型城下と呼ばれる両脇の高台に武家屋敷、
谷間に商人の町を挟んで、高台の坂道はテレビの撮影などでも使われる絶景スポットなのだそうな。商人の町の先っぽにある嗜好を凝らした建物の市役所に杵築藩藩庁の垂れ幕にウケてしまった。
この後は長駆、熊野摩崖仏までレンタカーを走らせたのだ。
2022年11月 嫁さんと
線路脇の広大な敷地が発掘調査中で庭園跡はそのまま発掘された景石を使って復元されているみたいですね。越前の朝倉館跡を思い出しました。
宗麟の生誕500年に向けて整備をすすめており完成後には是非また来たいと思いました。西へ1km弱の大分駅は再開発で物凄い華やかになっており、
宗麟とザビエルの銅像にテンション上がりまくり。
2022年11月 嫁さんと
古い日本城郭大系には府内城で記載されています。二基の現存櫓と数基の復元櫓、門があり周辺のビルとのコントラストが映え見ごたえあるのだが、
天守台含む内堀中の広場は役所保有の駐車場になっておりスタンプはあるものの御城印がない。
観光資源として気合が入ってないな。ただし整備計画はあり過渡期なのでまた来てみたいと思います。どうせなら全てを掘り起こして当時の曲輪を全て復元してほしいものだ。
2022年11月 嫁さんと
さいきと呼びます。麓の三の丸に大手門が現存しておりここから140mの山頂に二の丸、本丸の石垣作りの城郭があって下からも見えてテンションアゲアゲ。
規模は異なりますが米子城を思い出してしまいました。上り30分、下り15分で熊野摩崖仏と比べりゃ楽なもんです。本丸外曲輪からは佐伯の町が一望でき豊後水道の海も見えます。
大手門北側の武家屋敷街に国木田独歩ゆかりの屋敷がありました。残念ながら廃屋に成りかかってる屋敷もあり残念である。ここは寿司が名物でかつねない厚みの車エビを堪能しました。
2022年11月 嫁さんと
佐伯と大分の間位にある臼杵です。宗麟が島津の脅威に備えるために府内大友館を出てこの地に築城した城が大友改易後も維新まで続きました。
当時は杵築城と同じように海に突き出た半島で、30mほどの小山に上田城と似た意匠の畳櫓と復元城門を仰ぎ見ることができ素晴らしい。
城山は東西に長く二の丸と本丸を分断する空堀に天守台の石垣があります。二の丸には宗麟が日本で初めて手にした佛狼機砲(ふらんきほう:フランキー砲)通称国崩のレプリカ。
臼杵に来たならば城だけではなく近くの臼杵石仏(国宝)も必ず見ること。
2022年11月 嫁さんと
城下の町割りがそのままの残ってるので城へのアプローチは複雑でしたね。川岸の復興天守が良く映え中の展示は維新を迎えた奥平家ゆかりの長篠合戦由来の物が沢山ありました。
ここは石垣がこれまた貴重で黒田時代のもとの改修した細川時代の物が混在し説明看板も充実してます。
中津名物であるとりからの店を探しまくって貴重な時間を無駄に過ごしてしまったのだ。
2022年11月 嫁さんと
良い意味で期待を裏切ったので二つ星です。鬼門櫓が改修現存しており中はパネルの展示とダイナミックな木組みなど堪能出来ます。
驚愕すべきはその堀の深さで石垣造りの10mほどの曲輪跡に小学校が建っております。
また海側の穴太積みの石垣がこれまた見事で、小藩の木下藩がここまで普請できた背景には細川家の援助があったとのこと。
これは外様大大名として旧豊臣家への配慮があったのかと思ってます知らんけど。
秀頼の子国松が大阪の陣の際に真田の協力のもとこの日下藩に身をよせたとの伝承もあります知らんけど。
別府湾対岸に高崎山を中心に大分と別府の街が見える絶景なのだ。 絵画が好きな人は近くの二階堂美術館もどうぞ。
2024年4月 嫁さんと
あいにくの天候の中、空港から車小一時で高鍋町の舞鶴公園、
戦国時代の伊東48城のメンバーであり、島津を経て秋月氏に収まり江戸時代の高鍋藩の近世城ですね。
小さな歴史総合史料館は御城印なしで残念。展示は秋月氏関連が中心で外でたら雨が本格的。
大手道には立派な石段が残っている中、嫁さんを車に残し土砂降りの中意を決して一人で登城。中腹の丸に広大な藩庁跡や西南戦争没の碑。
ここから上は幾段もの土塁堀が見事。一段下がった丸の壁面に立派な石垣でびっくりで、大きな石が数個落ちていて近くには寄れない危ない。
ポツンと1つだけあった古い遊具が物悲しい。
一つ上の段に立派な土塁があり三階櫓があっだだろうと思われる最高位の段には看板なし。
よくわからない経年劣化したオブジェを眺めつつ一気に降りる。途中石段て滑って軽く尻もちついた尾てい骨が微かに痛む。
麓の神社は小さいながら巫女さんいた。奥に樹齢500年の大楠木、道路に倒れない様に内側からワイヤーで引っ張ってのがシュール。
ここから西都原古墳群に行く途中で見つけた日向国府跡を見て広大な古墳群と真新しい考古博物館はとても立派。
2024年4月 嫁さんと
今回の旅は、47都道府県踏破の最終県宮崎の南部を巡る計画であり、この地はこの旅の北限なのだ。
小さな自治体の標高100mも満たない山城ではありますが、過去二回にわたり島津配下の武将が大友軍と豊臣軍を退けている派手な籠城戦を繰り広げています。
西側から車でいくつかの空堀に掛かった橋を渡り本丸の駐車場に出ます。
地味な説明看板がありましたが町指定文化財にとどまり高名な戦を経た城のわりには寂しい感じが否めないのだ。
時計台を兼ねた城の望楼部分のみの展望台からは南側に役所含んだ小ぶりの町が見渡せますね。
綺麗な芝生で手入れされた公園になってますが、城の遺構としては前記の空堀だけかな。
2024年4月 嫁さんと
宮崎市内から内陸に入り霧島との間ぐらいですかね、高速道路だとそんなに苦ではありません。
都城は宮崎第二位の中堅都市の広大な街でもあり、国道10号はどこにでもあるチェーン店が建ち並び、
真新しい道の駅、NIQLLはしゃれた名前ですが要はニク―ル・肉ですね。地元名産の牛豚肉で盛況でした。
城は駅から西南にある日豊本線沿いの小山にあり最近竣工した立派な模擬城門が映えます。
本丸と神社になってる西城があり、間の深い堀は綺麗に整備されて線路脇から本丸へは虎口跡だそうです。
門跡を示すオブジェを過ぎると北側に立派な歴史資料館、既知でしたが残念ながら休館。
この資料館がまたとてもユニークで切妻破風を3段のピラミッドみたいに配置した建築物。
もっと大きくて派手だったら新興宗教の本部風だなと不謹慎なことを考えながら、大型連休中に休館にするのは止めてほしいなとブツブツ。
東側には街から出てきた石仏や石塔が沢山展示という名の放置。ここから市街地の眺めはよく、
さすが一国一城令まで250年間存在した要害パワーを感じたのであった。
ここ都城は島津発祥の地らしいく。島津と言えば薩摩のバイアスがありますが前記の城主も島津系だったみたいですね。
街の中には明治初期に建てられた都城島津邸も休館でしたブツブツ。
2024年4月 嫁さんと
むかさじょうと呼びます。都城から都於郡城に行く間に寄りました一応宮崎市内のようで市内平坦部の西限に位置するでしょうか。
最初はこの山城の西側の細い車道に一応城の看板らしいものがあり、それらしい山道からアプローチしたのだが明確に看板がない。
曲輪らしき平坦部と土塁らしきもが雑草の中確認できるが看板もなく整備もいまいちなので深追いは諦めた。
車で山の東側に行きこれまた狭い道を少し入ると小さな神社の祠を発見。草ボウボウの車2台ほど停められるスペースに停め、
立派な説明看板と一緒にありました城の登山道。
城は低山ながら一級品の山城であり、結構な数の曲輪群と広大な主郭を誇る南北朝時代から日向守護大名が存城した由緒正しい中世城郭です。
帰りによく見ると車を停めた祠の東側のグランドに穆佐城跡ガイダンス施設なる真新しい平屋があるではないか。
鍵が掛かっており見学希望の方はベルを押したのだが人は来ないので諦めた。外壁に大きな縄張図看板があり原図作成がよくTVで見る1,000田先生ではないか。
道案内をもう少し充実してほしいものだ。
2024年4月 嫁さんと
都於郡城への道中偶然見つけた山の上のお城、これは行くしかないと予定を変更して寄ってみた。
前出の城とは大きく異なり車で立派な駐車場までスムーズにアクセス、広大な公園にある立派な模擬天守の歴史資料館も休館。
城跡というより市民公園的な側面がある桜の名所らしいですね。さらに奥まで歩くと東端の曲輪は展望台になってました。
ここも伊東48城のメンバーで、関ヶ原西軍敗退の動乱時に旧領奪回を狙う伊東氏に備えて島津がこの城を強化。
一国一城令で廃城となったとありますが、関ヶ原後から廃城まで島津系が治めたのか?よくわかりませんね。
2024年4月 嫁さんと
伊東48城のセンターですね、本日のメインですがだいぶ道草を食ってしまったので夕方になってしまったのだ。
南北朝時代から戦国期までの240年間に日向一国を掌握した伊東氏の本城で中世城郭です。
本丸含め5つの曲輪で構成された比較的コンパクトな城で驚愕すべきはその堀の深さ、綺麗に整備されているので堀の深さが把握しやすい。
土橋などもないので曲輪間の移動はいちいちスローブで昇降これまた素晴らしい。
城の北側は少し木々が遮ってはいるも隅々まで展望が開けていたのでしょう。
本丸にこの都於郡出身と思われる天正遣欧使節団の伊東マンショの銅像がありました。
近世に藩があった佐土原城はここから東に数キロと案外近いですね。
2024年5月 嫁さんと
2024年5月 嫁さんと
2021年11月 嫁さんと
本丸堀の石垣は比較敵時代の新しい積み方で、堀池には高そうな鯉が泳いでおり最近復元竣工された立派な御楼門威容を誇ります。
幅、高さとも20mで国内最大の城門だと誇らしげでした。
門を入って直ぐの石垣に西南戦争の銃弾跡の立て看板。立て籠った西郷軍に政府軍が包囲し砲弾を浴びせた日本国最後の内戦だとこれまた誇らしげ。
中は真新しい鹿児島県歴史・美術センター黎明館があり傍には天璋院篤姫の銅像がありました。それにしても鹿児島市内は銅像が沢山、これに限らず薩長土肥はたくさんあるのだろう。
裏の城山からは桜島と市内を望む有名なスポットがあり、快晴だったので指宿開聞岳も見え桜島の手前には潜水艦が浮かんでいました。
城(グスク)見学だけを目的に行けば、レンタカ−を借りて2日もあれば、めぼしい城はすべて見学できます。
1995年2月 嫁さんと
御殿が再建されていますが、本土とはぜんぜんちがう雰囲気で、どちらかというと中国の紫禁城を小さくしたみたいな感じかな?
行ったことないけど(^O^) 石垣が石灰岩?系の石で構築されていてアーチ型の門が特徴です。
本来白っぽいはずの石灰岩がところどころ黒いには戦火のせい? 戦前は国宝でした(....>4回目)
2012年8月 家族で
ホテルからタクシーで首里城にやってまいりました。
タクシーのおじさん頭のいい人で、尖閣問題を国際法交えて日本の弱腰外交を非難し、基地やオブスレイはともかく地位協定に不満をぶち上げていました。
沖縄県民の本音でしょうか。お城は世界遺産効果もありたくさんの人で、順次建造物を再建の計画があり正殿よりも高いところにも建造物があった様です。
1995年2月 嫁さんと
昔、琉球が北山、中山、南山の三山勢力に別れていたときの北山の本城でした。
万里の長城みたいな砦が、ぐるりと城郭を構成している大きな城です。(大半は崩れていますが.)首里城みたいな石垣ではなく、石も小さく野面積みの感じですが、ちゃんとアーチ型の門が残っています。
駐車場の前で老人が”この牛に乗って記念写真を取れ”と言っていましたが、牛もかなりよぼよぼでした。
1995年2月 嫁さんと
ナカグスクと呼びます。なかじょうとは呼びません。 この中城だけなぜかグスクと呼びます。
琉球一の築城家の護佐丸(本土でいうと藤堂高虎か?)が建てたそうで、一、二、三の丸の連郭式縄張が良く残っている大きな城です。
1995年2月 嫁さんと
護佐丸ちゃんが建てた城です。 保存状態のよい石垣がぐるりと城郭をなしていて、中には建物跡らしき礎石も残っています。
アーチ型の門も完璧に残っています。 読谷村なので例の”ゾウの檻”の楚辺通信所が近くにあります。(行かなかったけど。)
1995年2月 嫁さんと
小さい城なのですが、半島の根元にある鋭角な小山の頂上部分から、階段状に曲輪が残っています。
とても雰囲気のよい城で眺めも最高にいいです。 城好きにはお勧めの城です。
2012年8月 家族で
娘達と水族館、摩文仁、首里城とここだけは外せないと思い17年ぶりにやってまいりました。向かいに小奇麗なビジターセンタと一部外堀が修復されているようです。今回は夏で快晴だったのでエメラルドグリーンとスカイブルーに挟まれたまさに天空の城。最高です。
1995年2月 嫁さんと
さて、なんて呼ぶでしょうか? 正解は”タマグスクジョウ”と呼びます。”タマジョウジョウ”ではありません。
中城以外にもグスクと呼ぶ城がありましたね。 小山の頂上に、ぜんぜん整備されていない小さな曲輪跡があり、こんな小さな城でも崩れかけのアーチ門があるところは遺跡ぽくていいですね。
1995年2月 嫁さんと
別名を知念森城と言うぐらいなので山の中にあります。 もちろん整備なんかされていなくて、うっそうと草木が茂る中にアーチ門が不気味さをあおっています。
遺構は結構残っていますが、嫁さんは怖がっていました。