むせ返るばかりの若葉が山野に満ち溢れます。春の新緑は、歴然たる季節現象として目にうつる。
冬の間、葉を落として休眠 していたのが新しく芽を出すのだから当然である。まず花が咲き、そのあとに
葉をつけるもの、葉を広げてから花を咲かせるもの、多くの木々が華々しく生命を謳歌する。新緑は常
緑樹にもあります。春先に落葉するものが多く、落葉 した古枝や新 しく 伸びた若枝から新葉を出し新緑
になる。落葉は秋のものとは限りません。竹の葉は春に散りますので 竹の秋 と申 します。若葉
の育ったのを見届けてから老いた葉が散りますので ユズリハ と名付 けられた木々もあります。
遠目には新緑が花のように美しいクスですが、根元には古葉がおちています。立夏直後の季語にいう
常盤木落葉 であり松、杉の葉も 同様なのです。落葉樹は木全体が新緑で覆われますが、常緑樹
では古葉の間に新葉が混じる新緑なのです。これは葉の寿命によるもので、例えば葉の寿命が三年な
ら、ほぼ 三分の一が新葉で、残りは古葉、つまり三分の一の新緑となります。竹の葉の寿命は1〜2年と
される。竹の落葉は春ですから、竹の秋と申しますが、その後竹の春がきて筍を出す。これが大きくなっ
て新葉を出すまでには1ヶ月もあれば足りる。草は一年生の草なら春か秋が新緑であり、多年草の草で
は多くは春に若芽を萌芽させて新緑となるのです。
ところで桜の開花は冬に寒さが厳しいことが条件のようです。5〜7℃が続くと休眠に活が入ります(
休眠打破)。桜は秋 落葉後に休眠に入りますが、7℃、理想的には5℃以下が続くことにより休眠打破
ー 眼をさますー になり、根が動きだし開花への準備に入るのです。冬暖かい日が続くと、休眠打破が
遅れ、開花が遅れることがあります。 南国鹿児島が福岡よりも開花が遅れるのはこのためなのです。
冬、寒くて立春後暖かく、直近に15℃以上の日が続くのが、早く咲く条件のようです。
「人造桜と天然桜」
日本の桜の大部分がソメイヨシノである。その豪華絢爛に咲き誇る花霞の下で、人々は沈黙したまま、あ
の熱烈な一週間が来るのをひたすら待ち続けるのだ。むせるほどの葉に覆われた夏の盛りの桜も、固い
鱗片のなかに花や葉の若芽を宿した厳冬の桜も誰も見向きもしないのに ・・・。ソメイは春になると一斉に
開花し一斉に散る。それは開花日が木ごとに微妙にずれる山桜では、ありえない光景なのである。この一
斉に開花し、一斉に散ったりする現象、ほぼ同じような、早過ぎる生長と早過ぎる死。これはソメイがクロー
ン植物だからである。ただ一本のソメイの細胞の一部から接木によって増殖された分身で、まったくのコピ
ー桜なのだ。九州のソメイも青森のソメイも、樹齢百年のソメイも今年初めて花をつけたソメイも、まったく
同一の遺伝子を持っている。このクローンならではの特性がこの極端な現象を引き起こすのだ。そもそも
地球上の生物は、交配、交尾という過程を経て、新たな生命を誕生させる。しかしクローン生物は、この
過程を介さずに増殖する。桜には、同じ木の花では受粉しないという 「自家不和合性」 と呼ばれる特性
がある。異なる木の花の雄しべの花粉が、蝶や鳥のからだについて運ばれ、違う木の花の雌しべに
することによって、初めて交配が成立する。違う遺伝子を組み込むことによって、初めて多様性が獲得さ
れるのである。こうしたことにより、強い子孫をつくるという、進化のために備わった自然の優れたメカニズ
ムなのだ。一本の木の花という閉ざされた関係のなかで交配が成立したならば、今以上の進化は望めな
い。山桜は交配により実がなり、鳥がその実を食べて違う土地でふんを落とし、そのなかの種が土の中で
育ち、新しい芽を出す。そして長い時間をかけてその土地に馴染みながら、成木となり花を咲かせる。ごく
自然のなりゆきなのだ。だから山桜は厳密にいえばみな違うのであり、一本一本が異なる遺伝子をもつ。
生まれ育った土地の特色を反映させて、個性を育む。根づいた土地、育った環境によって、同じ山桜で
もそれぞれ花の風情といったものが異なるのだ。土地が違えば花の印象が異なる。 山桜は若葉のなかに
花が咲き、植物としてまっとうな姿を見せてくれる。一本一本の桜に個性があり、咲きぶりにしても奥ゆかし
さがある。ソメイの華やかさだけの花と違い、繊細で品がある。古きよき時代の人々が愛でたのも、そうした
山桜であった。本居宣長の 「 敷島の大和心を人問れば 朝日に匂う山桜花」、西行法師の 「ねがわくは
花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」こうした感情はソメイが対象では生まれなかったにちがい
ない。ソメイは桜並木といった群れとして扱われるのに対して、山桜は一本の木として存在する。単色で塗
りつぶされたキャンバスと、白、淡いピンク、紅にちかい桃色、あるいは中間色や混合色のつづれ折りで
ある山桜との違いは一目瞭然。同一の遺伝子のコピーがなる世界とどれ一つとして同じ遺伝子であること
のない自生の桜がつくる世界が異なるのは当然だろう。山桜が愛されてきた江戸時代までは日本人と桜
の関係は理想的なものだった。人も桜も自然とともにあり、自然のなかで育まれた。ソメイが日本列島を席
巻するまでは、日本には豊かな自然があった。里山に行けば、人知れず咲く山桜がいたるところに見ら
れ、その繊細な美しさに感応する心を日本人は持っていたのである。その山桜も都会や公園では見るこ
とは滅多になく、田舎の山でしか見られなくなったのは残念なことである。最近はオーデイオでも、繊細な
音よりPA(大音量)的な傾向を、また映画でも内容の濃さより、やたらめったら膨大な資金を投入した迫
力シーンや大音量のダイナミズムの傾向を好むようです。田舎でも人知れずひっそり咲く山桜の良さを解
かる人は少ないようで、奇形の美とは言わないが微紅がかった白色の大い花をてんこ盛りしたような、
量感華美に咲き乱れるソメイヨシノに目が奪われるようです。
見る人もなき山里の桜花 ほかの散りなむのちぞ咲かまし − 伊勢 −