ため池のある風景
家の裏山の桜山も徐々に広がり、祖父の代より数倍に広がったと思う。裏山といっても家の後ろは他人の山が
迫るから、家からは遠く細長い地形になっていた。十数年前はこのつつみ(ため池)まできた。ここまでくる数年
間はきつかった。身を粉にしてやってきたといえば大袈裟だが、塗炭の苦しみを味わったこともあった。仕事内
容や年齢を考慮すればサラリーマン時代の比ではなかったような気がする。祖父が私の構想に共感し、私のた
めに実現しようと志半ばで逝った後、十三年近く経って志を受け継いできた。ここからため側の右斜面と町道側
を手に入れることで完成の目論見であった。長い年月が過ぎてしまったが、長年の懸案が解決されたことは喜ば
しいことである。寄る年波には勝てぬが、老骨に鞭打ってがんばりたいと思う。
長門方面へ行ったおり、足を延ばして三隅町の香月泰男美術館を訪問した。香月泰男はソ連に抑留され、
シベリアの収容所での強制労働の原体験を描いたシベリアシリ−ズが代表作。生まれ育った三隅町はシベ
リアで夢にまで見つづけた地であり、妻子が待つ地でもあった。 「ここが私の空であり、大地だ。ここで死に
たい。ここの土地になりたい」 そう願って生涯郷里を離れることなく創作活動を続けた。一方で自宅の周辺
の野山に咲く四季折々の花を画題に描きました。私は美術は無縁でして、絵画をみる目(眼力)は皆目あり
ません。しかし館内にかけられている書には感ずるところがありました。
生一 瞬一
1瞬に1生をかけることもある。
1生が1瞬に思える時があるだろう。
島根県の竹島に韓国の大統領が訪問した。野田首相は 「到底受け入れられないことで、毅然とした対応を
取っていかなければならない」 と言っているが、駐韓大使を召還するくらいの弱い対応では話にならない。
韓国により実効支配されている竹島は軍隊を常駐させ、日本の巡視船が近づくと砲弾を打ってくると言う。
日本ではこれを不法占拠というが、韓国では何というのかな。竹島は暦とした日本の領土、1905年に島根県
に編入されている。もう百年以上も前である。終戦後のサンフランシスコ講和条約でも日本の領土として認め
られている。この時韓国は対馬と竹島を自国の領土として主張したというが、連合国は認めなかった。日本
人が長く住んでいる対馬を自国の領土と主張するこの国の不見識さからみても竹島の根拠も怪しいものだ。
戦後のどさくさに、竹島を含めた海域に李承晩ラインを設定し、日本の漁船を締め出し、竹島を乗っ取った
わけだから。その際、328隻の日本漁船が攻撃・拿捕され、44人が殺傷し、3929人が13年間にわたって抑留
させた。この惨劇や不法占拠をみても、かっての日本の帝国主義を非難なんかできない。国際司法裁判所
に共同提訴する提案をしたが、韓国は応じる構えはない。韓国も自国の領土というのなら、堂々と受ければ
いいことで、受けないのは本音のところは自信がない証拠。グロ−バルコリアを標榜するのなら裁判で争え
ばいいこと。裁判を受け入れないようではあればまだロ−カルコリアといわざるをえない。大人の対応がで
きない国だから、裁判になる可能性は極めて薄いだろう。子供(ガキ)が買って欲しい物の前で地団太踏ん
で泣きじゃくるレベルなのだ。韓国の政治家が 、「盗人猛々しい」 とのコメントをしているが、そっくりそのま
ま返してやりたいこと。また共同提訴の提案に対しても 「一顧の価値」 もないだと。どちらも言葉の意味を理
解しているのか。北朝鮮の論調に似てきたが、北も南も同じ民族の血が流れているということ。
長門の金子みすゞ記念館に立ち寄る。入口はみすゞの実家跡に再現された書店 「金子文英堂」 、店先から
二階のみすゞの部屋、中庭へと巡れば、当時のみすゞの生活をうかがい知ることができる。更に奥へと続く本
館は 「幻の童謡詩人」 がどのような経緯で現代に蘇ったのか、その作品と生涯を、残された貴重な資料ととも
に紹介されている。澄んだきれいな心で描かれた世界は多くの人の心に深い感銘を与えました。純真無垢な
人生にはあまりにもむごい死、二十六歳の若さでこの世を去っても、いつもだれかの心のなかにみすゞさんは
生き続けています。
長門市には三つの記念館がある。仙崎の金子みすゞ記念館、三隅の香月泰男美術館と村田清風記念館で
ある。幕末初期の長州藩で、その藩政改革の先頭に立ったのは村田清風であった。長州藩革新派を輩出す
る原動力となったのは吉田松陰とされる。これに異議を唱える気はないが、その松陰が多大な影響を受けた
のが、村田清風であった。明治維新の礎を築き、吉田松陰が師と仰ぐのが村田清風である。村田清風は子供
の頃、三隅から萩までの21`を毎日徒歩で、萩の明倫館まで通ったという。今は山を幾多のトンネルでぶち
抜いた新道路ができたが、迂回しながら登る萩の峠は難所であった。当時はそれしか手段がなかったと言え
ばそれまでだが、徒歩で通うのは大変だっただろう。子供は藩校なんかいかないで、農作業だけをすればよ
かった時代である。清風没後の跡を継いだ周布政之助は、革新的政治家として藩内外の志士を指導し、安
政以後の難局に対処した。禁門の変(蛤御門の変)の責任を痛感し、志なかばにして自刃した。当記念館に
は周布政之助の遺品や資料も展示されている。この人も清風同様、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎などの
歴史上の表舞台に登場した志士たちとは違う、陽のあたらない英雄であった。
村田清風記念館
明治維新、その胎動の地とは・・・これぞまさしく長州萩にありと言っても過言ではありません。 吉田松陰を
お祀りする松陰神社の一角に、明治百年を記念して昭和43年につくられた大きな石碑があります。明治維
新胎動之地と刻まれており、この題字は、当時の総理大臣佐藤栄作氏の筆によるものです。
江戸幕府に反旗を翻したのは長州である。最初から最後まで倒幕でぶれなかった長州である。薩長などと
いうが、第一次長州征伐の総大将は薩摩の西郷隆盛である。薩摩は幕府側だったのである。第二次長州
征伐の高杉晋作率いる長州軍は、総勢3,000人で幕府軍15万人を打ち負かした。二度にわたる幕府との戦
いに薩摩藩が関わったことが大きいのである。第一次における長州藩への西郷の斡旋収拾、第二次にお
ける薩長同盟による長州への外国近代兵器斡旋である。特に第一次における長州藩取り潰しの危機を回
避させた勝海舟の意向を汲み取った西郷の恭順作戦である。
長州の片田舎から、綺羅星のごとく人材が輩出されたのは、吉田松陰という類い稀な思想家、教育者がいた
からに他ならない。その著作である 「松下村塾記」 の一節に、 「国のもっとも大なりとする所は、華夷の弁なり
」 がある。自分の生まれた土地がどのような僻地であろうと、それに劣等感を抱く必要はなく、その場所で励
めばそこが華になる。この辺境の地で、劣等感を克服して、すぐれた文化環境を築いて人材輩出という、松
蔭の誇り高い決意だったのである。華夷の弁には、古きよき時代の伝統を大切にして、他国の悪しき風習の
サル真似などするなという、主体性の大切さ、強い郷土愛への松蔭の思いもこめられた。松陰が松下村塾の
教育理念としてかかげた華夷の弁は、萩の松本村という辺境に英才教育の場を興そうとする壮大な意図をう
たったものだ。そして、長門国が天下を奮発震動させる奇傑の根拠地になろうという松陰の期待と予言は、彼
の死後において、ついに実現されたのである。我々は今から150年以上も前に、一地方から産声をあげた世
の中を変えるという心意気、維新の胎動を忘れてはならない。