「晩秋初冬は私の最も好きな季節」 だといった種田山頭火はよく枯れ草をうたった。

「やっぱり一人さみしい枯草」  「枯れゆく草のうつくしさにすわる」

亜麻色の世界には人を包み込む温かさがあるというが、果たしてそうだろうか。木にからむかずら

(つる草)、薄紫の花が愛らしいクズが立ち枯れている姿はおどろおどろしくて、とても 「うつくしさにすわ

る」 どころではないだろう。人を包み込むような温かさがある亜麻色の世界と映るか、おどろおどろしい

朽葉色の世界と映るかは個人の気質の問題と言ってしまえばそれまでだが、そこが漂泊の俳人、芸術

に生きる人間と俗世間に生きる人間との相違なのかもしれない。草木の葉が黄ばみ、はらはらと散って

ゆく。色づいた実も落ちる。俳句の季語にいう、黄落の季節である。枯れ草や落葉は土を覆うふとんにな

って、早春の草を守る。それは冬が春を抱え、冬の命が春の命を守っている姿だ。季節は、秋から冬へ

、冬から春へと一斉に移り変わるのではない。木枯らしの中にすでに萌える春がある。よく見ると枯れ草

の世界は亜麻色一色ではない。根元にはもう、小さなみどりの命が萌えでている。暦の大雪を過ぎると、

師走の日々はまっしぐらに冬至へと向かう。 「冬至冬なか冬はじめ」、冬至は冬の真ん中だが、厳しい寒

さのはじまるのはこれからだ。

師走の声をきくと、追い立てられるような圧迫感がある。十二月というより、師走といったほうがあわただ

しさの実感が出る。なんとなく駆けださなければいけないような気分になるから妙だ。冷気が肌をさす田

んぼの畦の柿の木に五つ、六つだけ真っ赤に熟した柿の実が冬の日に映えて、これは一体何といえば

いいのだろうか。「四季をこの一瞬にあつめて冷たく光ってゐるこの色」 といった人がいる。冷たさのある

朱色の実には夕暮れ時の光が相応しい。夏の間は一向に目立たなかった柿が、今の季節になると際立

ってくる。鈴なりになってみごとに実ったものが半分になり、四分の一になり、五つ、六つを数えるだけに

なると、ヒヨドリがとまっている姿がみられるようになる。樹上になったまま熟しきると、色も光沢もルビー

のように 真赤に輝いて美しくなります。熟柿(じゅくし)と呼ばれ、半透明になり内部がどろどろになって、

ぶどうの実と同じく、食うというより吸うといったほうが適切かもしれない。ヒヨドリはこの熟柿(じゅくし)が

食べやすく、特に好きなようです。この夕映え色の果実のなる光景は、日本の農村の原風景をあらわし

た代表的なもので、郷愁を誘うものだ。「柿 KAKI] は万国共通の言葉である。神から与えられた食べ物

という意味。昔から信仰と深い関係をもっていた。現在でも柿の実やくし柿を神への供え物としている神

社があり、正月の年神だなにこれを供える風習はひろく、年越しには欠くことのできないものとされてい

る。柿の効用としてビタミンB1B2が豊富、干し柿にすればカロチンがたっぷりあるという。柿の葉っぱは

「柿の葉茶」 としてスーパーでも売っており、押し寿司にも用いられる。病身の人が柿の木にもたれかか

ると、病が進まない、治るといわれたものである。

桜山

子どもの数が43年連続減少しています。15歳未満の推定人口は1401万人で、82年から43年連続減少し、過去最低を更新した。子供の総人口比は11.7%を示し、こちらも過去最低となった。子どもの割合は、現在の推計方法になった1950年には35.4%だったが、その後は71〜74年の第2次ベビーブーム期を除くと長期低下傾向にある。一人の女性が一生に産む子供の数で、人口再生産の物差しに使われる合計特殊出生率も年々低下している。愕然とする数字である。これは国家の興廃にかかわる大変な問題である。子どもは未来の担い手だ。子どもを、いかに、すこやかに、そしてたくましく育てるか。それによって、その社会の将来が決まってくる。子どもは社会全体の宝、金の卵の思いを強く胆に銘じるべきである。急激な出生数の低下の背景として、子どもを生む年齢の女性の減少と晩婚化、そして、結婚していても子どもを生まない傾向があげられる。出生率の低下は社会の高齢化を加速するだけでなく、子どもの成長そのものにも 「ひずみ」 を生む可能性を持つ。同世代の仲間が減ることによる社会性の欠如や、大人による過保護と過干渉。あるいは逆に、子ども無視した大人中心の社会になる恐れもあるだろう。労働力不足による経済の活力低下や、高齢者扶養の負担増加なども、子ども減少のマイナス要因だ。ではなぜ子どもが減るのだろうか。 「子育てにお金がかかる」 「教育費が高い」 「育児の肉体的・心理的負担」 「自分の仕事に差し支える」 「家が狭い」 などの理由をあげ、子どもを産みたい人は産めるような施策の充実を訴えているのである。産みたくても産めない、という人がいないように、女性の就労と出産・子育ての両立を支援する社会でなければならない。と同時に男性の子育てへの理解・参加も推進が図られねばならないだろう。原因はそれだけではない。若い人を中心に、大きな価値観の変化を見過ごすことはできない。豊かさになれた社会では、生活のレベル・質を落すことは難しいのである。たとえ子どものためだとしてもだ。夫婦共働きは必ずしも生活の為だけでなく、豊かさを失いたくない場合だってある。長寿社会への対応をテーマにした議論が多い。老齢化社会だから老人層に手厚くなるのであろうが、メリハリのある資金配分をしてもらいたいもの。中高年も含め老人は美食から粗食へ、贅沢から質素へと生活習慣を改善することで、贅肉が落ちスリムで筋肉質な健康体となり、余計な医療費も嵩まなくなるのだ。自助努力を惜しまないことが肝要だ。個人的には子どもたち、少子化対策にもっと使ってもらいたい。真剣に苦心惨憺してもらいたい。少子化の問題は差し迫った緊急の案件ではないので、なおざりにされがちだが、日本の将来がかかっている重要な問題なのだから。以前、都内の36才の妊婦が8病院に受け入れを断られた後に死亡した。緊急を要する妊婦に対する医療体制や医師不足が東京などの大都市にも及んでいることを示した。最初に要請を受けた病院は都が 「総合周産期母子医療センター」 に指定している拠点病院だ。産科医師が不足している現状では医師の勤務実態は厳しく、拠点病院でもこの有り様だ。鳴り物入りで登場しても、ちゃんと機能しなければ、企画倒れといわれてもしょうがない。亡くなられた妊婦、ご遺族の方々のことを思えば、お気の毒で言葉もない。これでは安心して子供をつくれないし、産めないではないか。産科医不足を理由に受け入れ拒否したり、まして周産期医療が形骸化するのは絶対にあってはならない。