巌流島(8)

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした島。吉川英治の小説で有名になりました。当代の剣豪がここを舞台

に雌雄を決したのは江戸時代が始ってすぐの慶長17年(1612年)のこと。この島の正式名称は " 舟島 " で

「 厳流 」 にちなんで厳流島 と呼ばれています。当時は舟の形をした小さな島だったが、埋め立てられて現

在は当時の6倍に広がった。第二次大戦後、住民が住んでいたこともあったが無人となり、今はわずかに残

った雑木林が往時をしのばせる。向かいは門司、厳流島の上に少しだけ見えるのは彦島(現在は橋で下関

と陸つづき)、その距離僅か三百メートル。武蔵が下関 赤間ヶ関より舟島に向かったのに対 し、小次郎は

豊前・小倉 長浜より遠路ばる先に到着する。武蔵の勝利に、武蔵が予定時間より二時間以上も遅れて着く

、など批判 も多いようですが、一方で特別なルールなどなかった時代、勝つために心理面、自然界などあら

ゆるものを味方にした武蔵流武道哲学、戦略家としての勝利 だという人も いますが、さて皆さんはどうお思

いですか ・・・? ところで遠路はるばると申しましたが、小倉と赤間ヶ関(現在の壇ノ浦・赤間神宮付近とさ

れるが)から厳流島までの距離はさしたる差はない。武蔵が遅れたのは、東へ西へと1日に4回、その流れ

の向きを逆転させる関門海峡・早鞆の瀬戸の激流(潮流の速度は最高で約10ノット・時速18キロ)を見誤

ったからだ、という説もある。武蔵の養子・伊織は、のちに小倉・小笠原藩の家老になり、武蔵没後に顕彰碑

を建立した。碑文には 「 両雄同時相会 」 と武蔵遅刻説はない。以上武蔵の名誉のために書いたが、小説

では武蔵が海を背にして動かなかったのは、真昼の太陽が海水によく反射して、それに対(むか)っている

小次郎には、はなはだ不利であった ・・・、とある。やはり遅れたのも策だったのか?両雄の世紀の対決は

二刀流の聖剣・武蔵と燕返しの剣の達人・小次郎の闘いであったが、同時に武蔵の求めた精神の剣 ( 剣

禅一如、人間修業の剣 ) と小次郎が信じた力と技の剣の対決でもあった。顕彰碑文によれば、小次郎は

三尺の真剣で技を尽くしたが、武蔵は木剣でもって一撃のうちに小次郎を殺したとある。小説では、待ちか

ねた小次郎は思わず大刀の鞘を投げ捨てる。それを見て武蔵は 「小次郎破れたり 」 と陽を背に櫂(かい)

を振り上げ、相手の頭を痛打。あっけなく勝負がついたとある。

ところで武蔵は何故舟の櫂(かい)を使ったのだろうか。舟の櫂は樫の木を使っており、非常に堅い。木剣の

衝撃力は150kgといわれるが、武蔵の櫂の木剣の衝撃力は350kg、一撃で確実に相手を死にやる真剣と同じ

武器となる。ただし普通の木剣よりスピードがハンディとなり、自在に使いこなすには相当の腕力が必要にな

ろう。当時の平均身長が155pといわれるなか、武蔵の身長は180cm、この長身から並外れた腕力で振り降ろ

されるスピードは、普通の木剣と同じスピードを維持出来たと推測される。小次郎がもつ三尺の真剣の重量

は1400g、武蔵の木剣は850g、長さが同じで技量が同程度なら、軽い方が有利に立ちまわれるのではなかろ

うか? また小次郎の三尺は120a、武蔵の木剣は126.7a、この6.7aの差が勝敗を決したという。勝負の瞬

間まで相手にこのような木剣で戦うのを伏せていたこと、この木剣を見た小次郎が 「こんなもので俺を倒せる

と思うのか」と言わしめたことに武蔵の思惑があったのかも知れない。武蔵は緻密な作戦を立てたのである。