日本人は千年の昔から花に折々の季節を感じてきました。しかし日本人の心をとらえて離さなかったの

は花だけではありません。早春の椿、春の桜、初夏の石楠花などの四季折々の花だけでなく、初夏のむ

せ返るばかりの若葉が山野に満ち溢れる新緑や秋の山野に燃え輝く 紅葉にも、日本人は美意識を育

んできました。萌え出ずる春の風情 「 萌黄、新緑 」 などと同様に、落葉前の木々の一瞬のきらめき、焔

のような色彩のシンホニーへの憧れは万葉の昔から日本人の血の中に流れる DNA ( 遺伝子 ) であ

る。日本人は 「 恥 」 の文化 といわれます。潔さが美学のひとつでした。一瞬、一斉に無数の花を咲か

せ、あっというまに散ってしまう 「 桜 」 を愛 し、落葉前の木々の命の輝きに心を奪われるのは、日本人

の心の底に流れる心情であります。これは時代が過ぎても、いつまでも変わることのないDNA なので

す。「もみじばの」 という枕詞がありますが、これは、「移る」 「過ぐ」 などにかかります。 移ろいゆくものの

はかなさを、燃えるようなモミジにつなげて愛でようとする美意識は、いかにも日本的な情緒といえるでしょ

う。同じように散る姿が愛でられるモチーフに桜があります。蕪村は桜とモミジのはかないイメージを重ね

て、次ぎのような句を詠みました。  " 紅葉してそれも散り行く桜哉 

「 シューマンの管弦楽曲 」

シューマンは初期 ドイツ ロマン派の巨匠であり、ベートーヴェンからブラームスにいたる内燃的傾向を代表する大作曲家の一人と

してその位置を音楽史上に留めています。シューマンは繊細 なロマン的な心情 と鋭い知性に恵まれていました。鋭い知性に裏づ

けられた格調ある華麗な文体は執筆活動で遺憾なく発揮されるのである。様々なペンネームを用いて音楽批評や論文を書いたが

これによってベルリオーズ、メンデルスゾーン、ショパンそしてブラームス らの音楽の価値 を広く世の中に紹介しました。処女評論

はショパンについて書かれており 「諸君、帽子をとり給え、天才だ!」 という言葉 は有名になった。1853年に発表したブラームス

についての 「新しい道」 という論文で " 新しき天才現われる " も有名である。音楽については若い頃 からピアニスト志望 だったこ

ともあり、ピアノ曲が出色であり他に室内楽、特に声楽曲が有名である。ピアノ曲はショパンと双璧(どちらをとるかは個人の気質の

問題だろう。あの偉大なシューマンの ピアノ作品が低くみられるのは、彼の曲がショパンの曲ほど確実にピアノの演奏効果が上が

らないためである。具体的に言えば、シューマンのピアノ書法は楽器の伝統的な使用法を離れて、交響的な広がり、詩的な奥行

きの方向にその表現の枠をぎりぎりまで拡大した。だから彼の書法はショパンのそれと比べるなら、鍵盤から結晶したような純粋な

ピアニズムではない。しかし、シューマンは彼一流の仕方でこの楽器の可能性を知り、それを独創的な仕方で開発 したのであっ

た)。華麗で優美、聴衆の受けを心得た作曲技法、しかも社交界の寵児でもあった華やかなショパンに比べ、シューマンは世の評

価をも超越した孤高の境地に独自の世界を実現したのだ。この二人は同 じウイーンフイルの指揮者であり、作曲家であった同世代

の二人と類似する(名誉欲も多分にあり、壮麗華美な曲を書いたR・シュトラウス と出世に無頓着、独自の世界を築いたマーラーと

である )。声楽曲はシューベルトと並ぶ高峰といえるが 、ピアノパートが従来の伴奏 を脱却し、極めて充実して雄弁に詩情を物語

り、微妙細美な感情世界を形成 しているのである。これらの多くは後々最愛の妻となる クララ・ヴィーク のために書かた作品であ

る。室内楽もそこに息づくシューマン一流の綿々としたロマン的な情緒 はまさに限りないのである。 ポリフォニックな書法をふんだ

んに採り入れた創意に合わせ、彼の筆致が室内楽に高度な練達を実現させているのだ。 4つの交響曲、「序曲 、スケルツォと終

曲」、序曲 「マンフレッド」、3つの協奏曲作品は文学的イメージが飛翔する、いかにもロマン主義的音楽 らしい名品 とされてい

る。大作オラトリオ 「楽園 とぺリ」 はメンデルスゾーンの 「エリア」 と共 にロマン派オラトリオの代表的存在となった。唯一のオペラ

「ゲノヴェーヴァ」 を完成することにより、あらゆる音楽ジャンルに創作の幅を広げることになった。ライフワークとして、あしかけ10年

以上の月日を要し、心血を注いだゲーテの 「ファウストからの情景」 は、シューマンの全創作のうちで、作曲家の精力が最も集中し

た大作で、それがはらむ世界の深さ、内面性からして、ドイツ19世紀の偉大な遺産の一つとして、永遠に残る作品であろう。 作品

番号の最後になる 「ミサ Op147」、「レクイエム Op148」 のその崇高な美しい音楽は、 近年とみに真価を認められつつある。

ピアノ、チェロ、バイオリンの三大楽器の協奏曲がすべて傑作なのはシューマンのみである (ベートーヴェン、ブラームス、チャイコ

フスキー、ラロ、サンサーンス、ドヴォルザーク などは二つまでである。)。Vnは献呈したヨアヒムが、初演せず握りつぶしたため、

長く埋もれて眠り続けました。草稿が発見されたのは、シューマンの死後80年以上経ってからであった。ヨアヒムはシューマン同様

ドヴォルザークにも協奏曲を書くようにすすめ、そして献呈されておきながら初演を握りつぶしたヴァイオリニストである。古今の名曲

の誉高いP、Vc に比べて歴史が浅い、Vnの高度な技巧を駆使するわりに演奏効果が上がらない、晩年の不幸な悲劇を想わせる

重苦しく、哀しげな旋律等で人気は劣るが、ハイテクニシァンでないと音楽にならないほどなかなか技巧的に凝ったところをもつ、こ

のそぼ降る雨にも似た " 涙のコンチェルト " はいかにもシューマンらしさのある、幻想的で色彩の濃い玄人好みのする作品であり、

特に第2楽章は夢見るようなロマン的詩情と香りを放つ絶品である。ヨアヒムは第3楽章に不満をもったといわれるが、理由はわから

ないが素人目でみても随所にみられる高度な技巧が演奏の効果(煌びやかさ)に繋がってないのである。拙宅にはカントロフ

('86)・ツエートマイヤー('88)・クレーメル('92)があるが、後者の二人は楽器も良く鳴り、その色彩の濃い演奏はいかにもシューマ

ン的といえるが、テクニックが冴え渡るものではない。クレーメルの第3楽章のテンポの遅さには我慢出来ないものがある。「生き生

きと、しかし速すぎずに」 とはシューマンのスコアの指示だが、終楽章は活発で速いのが大方のコンチェルト。余りのスローテンポ

は全曲の流れを台無しにしかねない。その点、カントロフはテクニックも一点のかげもない完璧なもので、音色の透明感も冴え、音

楽的にも素晴らしく中庸を得たものである。この協奏曲や名曲のチェロ協奏曲が、彼の死後になって初演されたことは不幸な

事実である。4つの交響曲は好きな作品ですが、同世代のメンデルスゾーンやブラームスに比べて人気 も評価も低いように思えま

す。それはシューマンの交響曲 に2つの欠陥 ― 形式 と管弦樂法 ― があるからのようです。 シューマンの創作の源泉は常に詩

的想念や文学的イメージが働き、それが音楽形成を支配しているために形式の面で、首尾一貫性を維持し得 なかった、という点

である。更に大規模なオーケストラ曲の創作が得意でなかったとされております。 つまりオーケストレーション (管弦樂法) に長け

ていなかったのである。具体的 には声部の重複である。その結果、音楽の線的構成が不明瞭になり、透明な音響効果が減少し全

体的に重々しくなるのである。更に旋律 を第 1Vnのみに担わせるために、第 1Vn が単独で重い伴奏と競わなければならないた

め、色彩が暗く不透明になっている。その他、技巧上のぎこちなさやむらなども数多く指摘されているのである。このようなことでシ

ューマンの交響曲 は 「輝かしさ」 に欠けているのです。 シューマンの表芸はピアノ曲 と声楽であり、交響曲 (管弦楽曲) は裏芸

だと言われる所以である。現代のスコアはワインガルトナーやマーラーが手を加えものである。 交響曲においては古典的、伝統的

な傾向がみられ、彼の独創的な楽曲に比較してみるとほとんど同一人の作品 とは思えないほどである。この極端な独創と伝統の

並存はシューマンのいたましい精神のアンバランスを証明するも のかもしれません。 愛聴曲の 「マンフ レッド序曲」 や 「交響曲第

四番 クララ」 でみられる正気と狂気の世界をさまよっているのようなところがあるのもそう かも しれません。第四番は第一番のあと、

シューマンが 次ぎの2作目は「クララ」 と題すると書いてクララへ捧げられ初演されたが、不評だったので刊行せず、10年後に大

幅な改訂を加え、第四番として改めて出版したものである。現代では題名なしで第四番で表示されるのが通例である。現在、題名

がついているのは、第1番 「春」、第3 「ライン」である。古典的で、伝統的 な回帰の強い第 2番を除き、他の3曲はシューマンらし

い純粋なロマン主義の精神の高揚や夢幻の抒情に溢れ、古色蒼然とした伝統的なものと織り成す不思議な情感の世界に、リスナ

ーは包まれるのである。四つの交響曲の終楽章にられる " 勝利の音楽 " は " 歓喜の音楽 " でもあり、いかにもベートーヴェン的

であり、ロマン派のなかでも、最も交響曲作家 " ベートーヴェン " の音楽を引き継いだものといえる。彼のロマン主義の精神は誰に

もまして真にドイツ的 なものであり、真にシューマンのものである。 シューマンのロマン主義の精神やトロイメライ (夢想、空想) は

交響曲の随所にみられるが、これらの音楽 はシューマン以外の誰にでも書けなかったものであろう。この子供のような純度の高い

感性 から生み出 される " 遊び(心)の音楽 " と天真爛漫な調べが、シューマンの音楽の魅力であり、真骨頂 なのです。