関門海峡花火大会

下関側、対岸の門司側で1万3千発の花火が打ち上げられます。 110万人以上、花火大会としては

全国第2位の人出で賑わい、真夏の夜の祭典に酔いしれます。

 

" 王宮の花火の音楽 "  − ヘンデル −

「ヘンデルは最も偉大な作曲家であり、私はまだまだ学ぶことがある」、こう言ったのは死の真際のベートーヴェンである。ベートー

ヴェンこそ、ヘンデルの音楽に最も深く影響を受けた作曲家であった。彼の激 しい気性 と考え方の独自性は著 しく ヘンデルに

似ている。ベートーヴェンは話しの中にヘンデルの名が出てくると、いかにも誇張 したしぐさでひざまずいたほどである。 ヘンデ

ルの筆の速さは超一流であった。あの偉大なオラトリオ 「メサイヤ」 を24日間で仕上げた。 筆の遅い代表ともいえるベートーヴェ

ンとは対照的である。ヘンデルは感激すると激情のとりこになって作曲するタイプである。メサイヤ 「第23曲」 の有名なアルトのア

リア、 ヘンデルは泣きながら作曲 したと言う。ヘンデルの生涯は名声に伴う絶え間ない闘いの生涯であった。おないどしの " 音

楽の父 " であるバッハが、終生ドイツにあって敬虔な信仰心をもとに、ひたすら神への信奉で音楽を綴り、精神美を追求 し続

けたのとは対照的に、" 音楽の母 " ヘンデルはずっと世俗的 な生活をおくりました。一生はそれこそ波瀾万丈、行動範囲も広

く名誉欲も多分にもっていた。ドイツ生まれながら、40代にはイギリスに帰化してしまっている。バッハがあくまでも教会音楽中心

だったのにひきくらべ、ヘンデルはオペラに情熱を燃やしオペラで身を立てるべく 腐心したのである。自分の芸術を妥協させるこ

とはめったになかったが、それでも聴衆の好みの変化に対応しつつ、彼はオペラ、オラトリオなどの広い分野において極めて多

様なスタイルを生み出した。 そのオペラ活動は挫折し、普通であれば意気消沈するところを持ち前の不屈というか したたかという

か、失意から這い上り、まだ確立されていなかったオラトリオの分野へと転換を余儀なくされるが、それでも死の5年前まで自分の

オペラの再演に変わらぬ興味を抱き続けた。まあ人間的で土性骨のある男 だったのであります。それだけ我ら凡人には親しみ

がもてるわけである。 ヘンデルの曲は内容的な深みや緻密な手法においてバッハに劣るが、重苦しくなく 軽いといえばそれまで

だが、宗教的であっても教会音楽でなく、それがむしろクリスチャンでない人にも、アピールする汎人間的な作品が多い。 壮大な

外面的効果と大らかで広々とした曲想は、まさにヘンデルの独壇場といえる。生き生きと明快に聴衆に訴えかけてゆく力の点で

は古今独歩である。 あのハレルヤ合唱のオラトリオ 「メサイヤ」、水上の音楽、合奏協奏曲、オルガン(ハープ)協奏曲、Vn ソナ

タ集、クラヴィア曲集などが有名ですが、歌劇 「リナルド」 のアリア 「涙のながれるままに」 をはじめ有名なアリアも多い。 「 王宮

の花火の音楽 」 は祝賀行事の一環としての花火大会用に、壮麗な音楽を聞きながら、盛大に打ち上げられる花火を見物しよう

という趣向で依嘱 された野外音楽です。ヘンデルの構想は弦楽器を加えた編成を意図したが、主催者側の意向で管楽器と打

楽器のみによる膨大な編成による音楽 となった。ヘンデルは後に演奏会用に弦楽器を加えた版を別 に作り、結局は自分の意

志をとおしたのであった。気骨な芸術家魂に脱帽!

オンブラ・マイ・フ

生い茂った木々の蔭よ、お前ほどいとしく優雅に 

やさしいものはなかった 木々の蔭よ etc.

− ヘンデル −