宋襄の仁

紀元前8世紀、春秋時代。
周王朝の弱体化から、さまざまな覇者が並び立った時代。

その第一の覇者といわれる斉の桓公が死ぬと、宋の襄公はこの桓公に代わって会議を主催し、各諸侯に号令しようとした。
仁政によって宋国内をうまく治めていたので、この自分の理想主義を高く掲げてのことである。
しかし宋の宰相の目夷はこう諌める。
「宋は小国。小国の分際で諸侯の盟主となろうとするのは禍のもとです」
が、楚と桓公亡き斉の両国とも盟約を結んだ襄公は強気になっていたので、この言葉には耳をかさなかった。

それから何年か後の紀元前638年。
宋は鄭の国を討った。ところが、この鄭を楚が救ったのである。
この楚の行為は先の宋と楚との盟約を破る行為である。
これに怒った宋の襄公は今度は楚を相手に戦おうとした。
と、また目夷が諌める。
「わが宋は天に見捨てられ滅びた殷の末裔です。(『麦秀の嘆』の項参) 楚と戦っても勝てるはずがない。いたずらに戦争をしてはいけない。宋は殷の末裔の小国としての分に甘んじて、出すぎたまねはしないほうがよい」
ところが、盟約を破った楚の行動を大儀にもとると考えた襄公は、その年の11月、楚の成王と、泓水という川のほとりで戦ったのである。

泓水をはさんで対峙する両軍。
先に楚の軍が泓水を渡って攻めかけたきた。
目夷が進言する。
「相手方の陣形が整わない今のうちに攻撃しましょう」
しかし襄公は言った。
「君子は人の難儀につけ込んで苦しめるようなことはしないものだ」と。
ということで楚軍が川を渡りすっかり陣形を整え終わるまで待って、宋軍は攻撃をしかけた、んが、少勢の宋軍が、大軍の楚にまともに戦って勝てるわけがなく、大敗し、襄公もこのときに受けた傷が元で3日後に死んでしまった。

・・・これが『宋襄の仁』の故事である。

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十八史略でも韓非子でも、襄公に対する非難の言葉は手厳しい。
目夷はこう言う。
「戦うからには勝つことがすべてだ。平時の倫理を戦乱のときに説いてもなんの意味もなさない。襄公の言葉どおりにしてたら奴隷として敵に仕えるようになるだけだ。そうしたら戦争をする必要もないではないか」
そりゃそうだ。その通りだ。
君主が己の正義を掲げてその理想に死ぬのは勝手だが、戦いにかりだされた一般ピープルはたまったもんではない。
正義とは、仁とは、それを実行するのには、いかに厳密な状況認識を必要をするかをこの言葉は教えている。

が。

史記で司馬遷は上記のようには非難しっぱなしではない。
むしろ襄公のとった行為を認める記述がある。
ポイントは、
“襄公の仁政は内政では成功していること”
“大儀にもとる楚の行為を諌める目的の戦いで、自軍も同様な行為はできない”
“最後の最後まで自分の主義を貫いた”
司馬遷の意見はこうだ。
「君子の中には襄公を賞賛するものがある。当時の中国に礼儀が欠けているのを嘆いて、これを褒め称えたのである。宋の襄公には、礼譲の心があったからである。」

これには、自分の理想主義を貫徹した人々への司馬遷の「共感」といったものがあるのではないか。
そして、『杞憂』のところでも述べたが、杞の国や宋の国が、敗戦国遺民の国ということで当時の人々に卑しめられたいきさつがあるとすれば、
『宋襄の仁』という言葉は、時代や人々の考え方の変化によってもしかすると意味がすりかわってきたのかもしれない、、、とるうは思った。

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宋は子姓。商(=殷)の紂王の庶兄、微子啓の封ぜられし所なり。後世、春秋に至り、襄公父なる者有り。諸侯に覇たらんと欲し、楚と戦う。公子目夷、其の未だ陣せざるに及びて之を撃たんと請う。公曰く「君子は人を厄に困しめず」と。遂に楚の敗す所と為る。世、笑いて以って宋襄の仁と為す。
(十八史略)

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・無益な情け、的外れのあわれみ、の意味。
また、情けをかけるときは時と場合を考えなければならないという意味





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