危急存亡の秋(とき)

三国志後期。
蜀の国は劉備が亡くなってその子・劉禅が帝位についていた。
残念ながら、劉禅は暗愚な君主であり、蜀は三国の中でももっとも劣勢であった。が、優秀な軍師で蜀の丞相・諸葛孔明は勢力を強化する政策をとり続けた。
まず雲南地方に出兵し西南の地方を固め、次いで中原への機会をうかがい、宿敵の魏と決戦を試みる。
これが『涙を揮って馬謖を斬る』の項で述べた、228年の第一次北伐作戦である。
この際に「魏を討つべし」と帝に上奏したのが有名な『出師の表(出師=出兵)』。
ここで挙げる故事成語は、この『出師の表』の中の言葉である。

この出師の表を読んで泣かぬ者は忠臣ではないといわれるが、孔明はなにも、周囲の人々全員を感動させたくて書いたわけではない。あくまでもこれは“上奏文”で、つまり孔明が感動させたかったのは帝・劉禅たった一人でなのである。劉禅が心を動かしてくれればそれでよかったわけである。

古今東西、すばらしいおとっつぁんの息子、というのは、ご多分に漏れず、どーも評判&人物がよろしくないことになっている。
それは周りの人物が、「親父との比較」という色眼鏡で見てしまうためでもあり、それが本人にとって大きなプレッシャーとなるからでもあろう。考えれば気の毒である。
違う職業に就いてしまえばまた別なのだろうが。

劉備自身もなによりそれを心配していたようで、
「孔明よ。息子・劉禅の後見役を頼む。そしてもし劉禅が帝にふさわしくないような人物であったなら、劉禅を廃し君自身が蜀の皇帝となってほしい」
と遺言している。
んがー、こういわれて、
「はい、わっかりました」と、孔明が皇帝の位に就くわ〜けがない。たとえ劉禅よりも自分の帝に相応しいと分かっていても。周囲がそれを十分認めていたとしても。
この劉備の遺言に、親としての気遣い、上に立つ者としての責任、そしてなによりも劉備からの絶大な信頼を感じた孔明は、なんとしてもこの信に報いんと、劉禅を優れた帝に育てることにまい進する。
この『出師の表』にもその必死の孔明の思いがあふれていて、それがゆえに、その熱意が人を感動させるのだ。

・・・あー、でもー、
感動させる名文なれど・・・長いっ!
めんどくさいので、成語を含む出だしと最後のところだけね。ヾ(・・;)

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諸葛亮孔明、今ここに陛下に申し上げます。
先帝(劉備=昭烈皇帝)は漢王室復興の大事業をお始めになりましたが、まだそれが半ばにも達せられぬうちに途中で崩御されました。
今、天下は魏・蜀・呉の三国に別れ、我が蜀の益州の民は疲弊しきっております。
これこそ誠に国が続くか滅びるかのせっぱつまった大事なときであります。
しかしながら、陛下のご身辺をお守りする臣下が宮中においてその職を怠らず
忠義の心に燃える士が一身を投げ出して遠く戦場で勇敢に戦っておりますのは、
思いますに、先帝から賜りましたご恩や厚遇を忘れず、これを陛下にお報いしようとしてのことからでございます。
陛下にはどうか広く意見をお聞きになり、先帝のご遺徳をかがやかされ、忠臣の士気を大いに高めてくださいますよう。
陛下ご自身を自ら薄徳とお気めつけになり、口実をもうけて筋道を失い、真心から陛下をお諌めする者の路をお塞ぎになるようなことがあってはなりません。
宮中と政府はともに一体で、善き者の登用や悪しき者罰することに食い違いがあってはなりません。もしよこしまな考えから罪を犯した者、そして忠義の心から善い事をした者は、必ず役所で賞罰を議論し、陛下のの政治が公平であるという基本理念を明らかにすべきです。
個人感情(えこひいき)で宮中と政府とで法の運用が異なることがあってはならないのです。

(ものすごい中略)

陛下にお願い申しあげます。どうぞ、私に賊を討ち漢王朝を復興する大任をお命じ下さい。 功績が無ければ、私の罪を追求し先帝の霊にお告げ下さい。
もし、政治で侍中・侍郎であります、郭攸之、、董允らが陛下の徳を盛んにする進言ができなかった場合は、その咎をお責めになり、彼らの怠慢を明らかにしてください。
陛下ご自身も正しい道を臣下に諮問し採用され、正しい言葉を聞き分けてお聞き入れになり、 深く先帝のご遺言を思い出してお務めください。
私孔明は、陛下や先帝の恩を受け、感激にたえません。
今まさに国を遠く離れ北伐を行うべきです。
私はこの上奏文を前にして涙が流れ落ち、何を申し上げてよいかわからなくなってしまいました。
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臣、亮言う。
先帝、創業未だ半ばならずして、中道に崩ソす。
今天下三分し、益州疲弊す。
此れ誠に 危急存亡の秋 なり。
然れども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追いて、之を陛下に報いんと欲すればなり。(後略)
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・危うくさしせまって生き残るか滅びるかの重大なとき、乗るかそるかの瀬戸際のこと。
「とき」に「秋」の字を当てるのは、秋は収穫の季節であり、1年で最も大事な時期という意味から。
「まさに今! ここをおいてほかにない重要な時」、というような感じか。

この出師の表を奉って出征したものの、馬謖のせいで(笑)不成功に終わり、翌年、再度北伐作戦を敢行する。しかし魏との再度の決戦でも孔明は目的を達することができなかった。
その後、234年8月23日、中国統一をめざした孔明も、志半ばにして五丈原で死すのである。

んで、死ぬときに、自分の息子・瞻の将来を案じて綴った手紙がある。
それがまたまた名文で有名な『誡子書=子を誡めるの書』
よく、学校名などに「静修」という言葉を使っているところがあるが、これはこの『誡子書』の「それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て徳を養ふ」という文からとられているようだ。
要約して曰く、
「優れた人は静かに身を修め、徳を養う。 無欲でなければ志は立たず おだやかでなければ道は遠い。学問は静から、才能は学から生まれる。学ぶことで才能は開花する。志がなければ学問の完成はない」

・・・なかなか君子は黙って逝かないもんなんだな。わはは(^^ゞ




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