先ず隗より始めよ

えー。
ちょいと前振りが長い話ですが、我慢していただきましょう。
故事はすなわち歴史でもありますので(^^ゞ


禅譲という言葉がある。
これは皇帝が自分の血を分けた者(息子とか)に次の帝位を継がせるのではなくて、これぞ、と思われる「有徳の士」に譲位することである。これをやったのが伝説の聖人堯と舜であり、この二人は儒家にあがめ奉られている。

さて、
燕という国にカイという王がいた。(前321〜312)
んで、このときの宰相が子之という腹に一物ある人物。

で、ひそかに子之の腹黒いたくらみに加担しようという陰険なやからがいる。
それらがこう言った。
「陛下、帝位を太子の平さまにお譲りにならず、徳のあります宰相の子之に禅譲されれば、陛下はそれこそまさに堯か舜です」と。

この王様、いわゆる「書痴」という、書物から学んだ観念や知識を妄信するような痴れ者だったらしい。で、なんとこのカイ王、こういわれて本当に位を子之に譲ってしまったのである!

さああて、こうなると反子之派と子之派とが入り乱れて大混乱。
内乱が起こってそれは数ヶ月つづき、死者は数万にも達した。

この動乱を隣の斉国でみていたのはあの孟子。
「カイ王の禅譲は、礼を乱した暴挙であって、殷の紂王の暴政となんら変わりはありません。暴政から燕国の民をお救いなさいませ」
といって、もともと燕国侵攻の機会を狙っていた斉国の王宣の背中を押し、ついには燕の全土を制圧してしまった。
子之は逃げ去ったが、カイ王は殺された。

さて、そのあと、めちゃくちゃになっていた燕を収拾し、燕王の位についたのが昭王である。

この王様はなかなかの人物で、なんとか燕国を復興し、制圧されたというあだに報いんとしていた。 そこで燕の郭隗を訪れて言った。
「斉は、私の国の内乱に乗じ、燕を襲った。私は今、この燕が小さく力も弱く、斉への報復など及びもつかぬことであるということは十分わかっている。が、賢者を得、彼らとともども国を治めて先王カイの恥をすすぎたい。それにはどうしたらよいだろうか?」
郭隗がこたえていうには
「(中略)陛下、こういう話がございます。
昔、“千里をはしるという馬”を千金で求めようとする主人がおりました。が、何年たっても手に入れられずにいたところ、その家来が金五百で、死んだ千里の馬の骨を買ってもってきました。それを見た主人は激怒して
『ほしいのは生きている馬だ。なんで死んだ馬に五百金もの金を無駄につかったのだ!』
買ってきた者が申します。
『死んだ馬の骨でさえ五百金で買うのでございます。生きている馬ならなおさらのこと、と世間では考えますでしょう。こちらから出向いて探し回らなくても、そのうちに優秀な馬がどんどんやってまいることでしょう』
すると本当に1年もせずに千里の馬が何頭もその主人の下にやってきたのだそうでございます。
陛下、もし本当に賢者を得たいとお思いでしたら、まず私隗からお始めくださいますように。
『昭王はあの隗のようなつまらぬものも優遇する』という噂がながれれば、当然私よりもっとすぐれた賢者が王の下にはせ参じるでしょう。それらは千里の道も遠いとは思わないでしょう」

王が隗の言を受け入れると、その通り、さまざまな国から賢者が競ってやってくるようになった。
そして王と優秀な人々が苦楽をともにした27年の後、燕は遂に斉国をことごとく制圧するのである。で、そのときの将軍があの楽毅。彼も『隗より始めよ』作戦(笑)で魏から燕にやってきた人物の一人だったのだ。

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郭隗曰く、「今、王、誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。 隗すら且つ事えらる、況んや隗より賢る者をや。豈千里を遠しとせんや。」と。
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・故事から転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよということ。また、物事はまず言い出した者からやり始めるべきだとの意味でも使う。

「先ず『隗より始めよ』ということだ」
と、田中真紀子氏がカメラの前で吼えていたのを聞き、私(るう)は一瞬、
「おお、なかなかえらいじゃないか。そういう気概があなたにあったのか!」と思った。ちょっと彼女を見直しかかった。当然「隗」は「田中氏自身」だと思ってしまったのだ(^^ゞ
がしかしどーやら、やっぱり違ったようだ。
しかも辻元女史と抗弁が一緒だった。はっはっは。
『人のせいにしないで、自分のことをまずやるべきだ』というのが真意に近いはず。言葉の使い方間違えないでくだされ〜(;^_^A
 (2002/4/21 記)



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