<中国>長子口墓は「殷王の兄」の墓 文献上人物の実在を初確認

 中国河南省・商丘の南約50キロの鹿邑太清宮(ろくゆうたいせいきゅう)で発掘され、「長子口墓」と名付けられた墓が殷(いん)の最後の王・紂王(ちゅうおう)の兄の微子(びし)(紀元前1050年前後の人物。微子啓、微子開とも呼ばれる)のものであることが、松丸道雄・東京大学名誉教授の現地調査と中国の研究者の協力で22日までに明らかになった。殷から西周初期にかけて、「史記」など文献に登場する人物で墓が特定されたのは初めて。

 未盗掘のため、約600年続いたといわれる殷王朝の成熟文化の成果がそのまま出てきた。中国古代王朝の激動の歴史解明に向けて、きわめて貴重な発見になった。

 発掘は、1997年から98年まで河南省文物考古研究所と周口市文化局によって行われた。出土青銅器に「長子口」と刻まれた金文が多く墓の命名由来となったが、墓主は不明とされていた。

 微子の墓では、と最初に問題提起したのは王恩田・山東省博物館研究員。今秋刊行の「中原文物」(河南省博物院)で指摘した。続いて、古文字学の第一人者で古代中国の青銅器研究でも知られる松丸さんが現地調査した。

 松丸さんは(1)発掘墓がかつての宋国内で発掘された(2)発掘青銅器の年代が殷から西周初期にかかっている(3)南北49・5メートルの墓道を持ち君主クラスの大墓(4)13人の殉葬者が埋められ、墓主の腰付近に死後の世界の案内役である犬と犬遣いの骨が発見されるなど、典型的な殷の貴人墓(5)墓主の人骨の鑑定で60歳ぐらいと文献上の微子と一致(6)「長子」は「微子」と同一人物であることが「呂氏春秋」に記載されている――などから、微子の墓だと断定した。

 微子は紂王の庶兄で周時代の諸候の一つ、宋国の始祖。妲己を溺愛し暴政をした紂王をしばしばいさめたが、紂王は聞き入れなかった。紂王没後、殷の祭祀(さいし)を継いで、殷の遺民を治めた。孔子は「殷の三仁」の一人としている。

 松丸さんは「殷の王、王子の墓でまったく未盗掘のものがみつかったのは初めて。殷文化がそっくり出てきた。文献上の記載が考古学上の発見で証明されたことで、歴史上の問題が飛躍的に解決された貴重なケースだ」と話している。 【荒井魏】

 ◇大きな意味もつ

 量(はかり)博満・上智大学名誉教授(中国考古学専攻)の話 中国社会科学院の張長壽先生も裏付けているならば、微子墓とみていいでしょう。微子は、殷から周への中国古代史の大転換の時期に際会した歴史的な人物。周は殷の文化を受け継いだといわれるが、転換期の文化を検討し、発掘物などからどのような問題提起ができるか、考古学者の一人としては興奮を覚える大変なことだ。

 【殷と周】 殷は紀元前11〜16世紀ごろ、成湯王が夏(か)の桀(けつ)王を滅ぼして創始した中国古代の王朝。紀元前1050年ごろ、微子の弟、第30代の紂王の時に、周の武王に滅ぼされた。周は紀元前約250年に秦に滅ぼされるが、第12代幽王までを西周、都を東遷以後を東周と呼ぶ。

 ◇殷や周の文化解明に向け、高まる期待

 中国河南省の鹿邑太清宮(ろくゆうたいせいきゅう)で発掘された「長子口墓」の主が、殷の紂王(ちゅうおう)の兄、微子とわかった。司馬遷「史記」の世界が具体的に裏付けられたうえ、殷や周の文化解明に向け、期待が高まる。

 墓主の特定には文字の解読をめぐって、日中の研究者を巻き込んだ激しいやりとりと協力があった。

 微子墓と最初に指摘したのは王恩田・山東省博物館研究員。今秋刊行の「中原文物」(河南省博物院)で、「長子口」の「長」と解されている金文は「微」と読むのが正しいと論じた。これに対し河南省文物考古研究所側からは「長」が正しく「長国」という国があったと反論が出ていた。

 松丸道雄・東大名誉教授の現地調査では、発掘青銅器235点中の礼器85点のうち54点に銘があり、鑑定の結果37例を「長子口」と判読。墓主は「長」という国の子口(子は殷王室の一員の意味、口は名)と解釈した。

 しかし、張長寿・中国社会科学院考古研究所研究員から「呂氏春秋」(約2250年前の書)に周の武王が微子を「長侯」に任じ殷の祭祀(さいし)をさせた(世為長侯、守殷常祀…)と記載されているとの情報が松丸さんに寄せられ、微子墓であることが決定的となった。

 また、微子は「史記」には「微子啓」「微子開」とも表記されている。松丸さんによると、「長子口」の「口」は「啓」や「開」と意味が近いだけでなく、いずれも古代は声母(中国音韻学で、音節の初めにある子音)が同じで関連深い文字だという。

  墓の特定について、発掘をした韓維竜・周口市文化局副局長兼考古学研究員は「文字(金文の『長子口』)の問題が解決すれば墓の格、状況から微子墓とみてOKです」、張志清・河南省文物考古研究所副所長は「状況から微子墓との見方は有力。今後の周辺遺跡の発掘による裏付けに期待したい」と語っている。

 「史記」では、微子は周の武王が殷を滅ぼした時、殷王朝を代表して上半身裸で両手を後ろにしばり、膝行(しっこう)して降伏した。殷の落日を背負った王子だが、仁徳があり、殷の遺民から慕われた。

 張長寿・中国社会科学院考古研究所研究員の話 副葬品などが殷時代の特徴をもち、しかも殷周革命から数十年後の西周初期の青銅器も含まれており、微子墓ではと自分も考えていた。今後周辺地域の発掘調査が考古学上非常に大きな意味をもつだろう。 【荒井魏】

(毎日新聞 2002/11/23の記事)