閃きの有効性を見極める----審神者(さにわ)の能力

“社会生活の中でより創造的に生きていく為に”

 人が受け身でなく、自ら能動的に生きはじめたときに、常に責任を伴う判断を下す場面が多くなる。そして、創造的になればなるほど、閃きや社会的な常識に囚われない想いが湧き上がってくるものである。しかし、その想いの信号は感受性が強い人ほどノイズが入りやすい。
 ノイズが多い時代には、自分自身の直感力を鍛え、そして直感が冴えないときの理性による判断力をつけ、レベルの高いソース(大いなる存在、高い自己)と繋がることを可能にする高い理念と徳(浄化されたポジティブな潜在エネルギー)を“自分自身”が持つ必要がある。
 守られる側から守る側に自己を転換することが要求されている今の日本人達。神仏が、国が、会社が、法が、権利が自分を守ってくれると思ったら大間違いだ。自分自身を低く固定するのではなく、自分自身の本来のエネルギーを引き出し、その周波数を高めレンジを拡げよう(ただし、その前に自分自身のネガティブなエネルギー浄化の必要な場合があるが)。それが出来てこそ、人と繋がり、動植物、地球と繋がり、大いなる存在と確かに繋がることが可能になる。魂の質が変わるとき、その生みの苦しみのときを乗り越えるために。`01/10(`04/11補


 審神者(さにわ)とは、神道の言葉でトランス状態に入って語られる巫女や神主の神憑りの言葉(託宣)を、本当の神の言葉かどうかを正邪見抜く為の介添え者のことで、託宣に夾雑物が入らないよう純粋に神意を取り次ぐ為の神道古来よりのシステムである。

 日頃精進潔斎をして清めている巫女神主であるが、時として周波数が落ちていたり体調が不十分である場合に、トランス状態に於いて望む神とは違う存在と波長が合い、神意と違う情報を受け取ってしまうことがある。それを第三者が見極めるのである。

 同様に我々も、自分の閃き(フィーリング)がどこから来ているのか見極める能力がないと、ポジティブに自分のプラスになる閃きなのか、それとも自己中心的なエゴから来る自分を守ろうとする想いなのか、自分勝手な利己的思いこみなのか、はたまた他人や他の存在のネガティブな意識に波長が合って来ているものなのか、何れか解らなくなってしまう。ただ、閃きというものは社会通念や既成概念というものとは違う次元から来るものなので、自分の想いや計らいを捨てて受け取ること、そして実行して検証してみることが肝要だ。

 その検証の行為を繰り返しデータを集めると、閃きや想いが自分の内から湧き上がってくるときの感覚に違いがあったり、肉体的な反応があったりするもする。また、その時の自分の置かれた状況を客観的に分析して、自分の反応と照らし合わせて、それが妥当なものか判断できるようになってくる。信頼できる閃きや想いはなにか確信を持てる感覚が残るものだ。
 そうでないと、その想いと閃きの矛盾に振り回され、疑心暗鬼のまま、大いなる存在・高いレベルの自己に繋がる意識の核がいつまで経っても出来上がらないのである。つまり、自分自身に対する信頼感がなかったり、自信がなかったりすると、閃きを受け取れなかったり、受け取っても無視してしまったり、強いバイアスをかけてしまって現実を歪めてしまったりするのだ。

 ところが、閃きばかりを重視すると場合によってはオウムの人間に見られるような暴走を起こす危険性もある。閃きばかりに頼ると、高いレベルから来る閃きなのか、エゴが作り出したのマーヤー(幻影)なのか、次第に見分けがつかなくなりエゴのインフレーション(膨張)を起こすのを止められなくなるのだ。
 つまり、神憑り的なことを多少とも出来るようになると常人とは違った力を発揮したりする上に、クリアなメッセージ(大概は自分に都合の良い)を受け取ったりするので、神になった(悟りの道に入った)つもりになってしまうのだが、自分の内外にエゴの抑制システムを持っていないと、エゴばかりが肥大化して、自我の欲求を満たすためにその力を利用したり、低次な自我が作り出すメッセージに踊らされるようになり、挙げ句には加速度的に道を転落していくのである。

 精神的霊的な修行の道を歩む者の陥りやすい罠である。禅宗では野弧禅などとも云われ修行する者に戒められている。これは精神的な行をすれば、常につきまとう問題であり、釈尊が成道の前に苦しんだマーヤーのようなレベルでなくとも、初期の段階から発生するものなので、気をつけておかなければならない。

 閃きという直感的な感覚は、観念的に凝り固まった人間のエゴを一旦壊すときには、特に重きをおいてその閃きを受け取れる能力を伸ばす必要があるし、日常生活に於いても大事なものであるが、迷ったときなど最終的には理性で判断することを忘れてはならない。何事もバランスである。良いことも悪いこともやらないという小さくまとまった狭義な妥協の意味のバランスでは無く、ダイナミックレンジの広い幅のある活動の中でのバランスのことである。仏教ではこれを中道と言った。

 さて、こういったエゴの暴走の例は霊的な道のように特殊なものに限らず、身近な社会の中でも一般的である。エゴは自分が理解できる範囲でしか現実を認識できないのである。自我の経験則の中から現実を構築するのである。つまり自分自身が見たり感じたりしているのは、実は自我(と集合無意識の暗黙の約束の上の共同創造)が作り出すマーヤー(幻想)の中のものであるのにもかかわらず、我々はそれが全てと思い込んで生きているわけである。少しでも社会的成功を得ると自分の力だけで勝ち得たものと思い、奢り高ぶって道を踏み外すのをよく見ているだろう。エゴが肥大化して風船の如くに膨らみ、そうなると周りからスポイルされ、また自身の判断を間違い、やがて破裂したエゴが自他ともに傷つけるのである。今の時代は、物事が生起消滅するタイムスパンが短い時代なので、良ければドンドン伸びる代わりに、心得違いしたときに堕ちるのも早い。ある意味、増幅のエネルギーを持った時代なのだ。

 我々もネガティブな同様の道を歩まないようにする為には、常に自分自身の想いを客観的に見つめ、そこにエゴの欲求を満たすための自己肯定の論理や、自己保存の為だけの執着、または逆に自己否定などの、後ろ向きの想いがどれだけ入っているかチェックする必要がある。

 日頃、このような気づく能力の研鑽を務めていないと、せっかく起こった閃きが、どこから来ているものか見分けがつかず、新しい道に踏み出せないことになる。また、栄光の道(望むなら)を踏み出した後も、気づきを大切にし、自分自身のエゴをチェックすることを忘れてしまうと、元の木阿弥以下になってしまう場合がある。

 神道は、禊ぎ祓いとともにこのような審神者のシステムの下に霊性の高さを維持し、純粋さを保ってきたのである。
 因みにシャカムニブッダは、自身は比類のない能力を持っていたが、弟子達の純粋な修行のために、神霊やシッダ(超能力)についてあえて語らず、無記(有るとも無いとも言わない)の姿勢を通した。その根本姿勢、意識のキーワードは“捨てる”ことである。ブッダの示した道は、あくまでも組織や教団によらない、個の転換と智慧による、ニルヴァーナに至る道であった。そしてニルヴァーナは大いなる存在、ブラフマン、神と呼ばれるものに合一した状態と同等である。

 何れにしても人を導く聖達は、霊性を損なわないための原理を保ち続けたのである。

 我々が出来ることは、閃きが、自我の想いから来ているマーヤーなのか、それとも自分自身の深い部分、大いなる存在に繋がる部分から来ているのかを見極めるに、その閃きに関わる何層もの想いを、玉葱の薄皮を剥ぐように“捨てる”ことをやってみて、夾雑物が混じっていないかどうか、“自分自身で”確かめてみることである。それを繰り返すことによって、閃きの信号の意味が見えてくるようになり、さらには自分自身への信頼感も高まるはずだ。

 自分自身で自分の想いを審神者(さにわ)することが大事だ。

 そして、やたらカリスマや俗界の成功者、宇宙人などをあがめず、自己確立した高い意識と誇りを持ち、自己責任で社会生活が営め、互いにシェア出来る高い霊性を持った個人になるのである。ヒンドゥー的な言い方をすれば、その確立された円満な個人は完結した小宇宙(アートマン)であり、そしてその時にのみ、大いなる宇宙(ブラフマン)と共振し合一されるということだ。

 特に自己確立されていない人間が多い日本、集団の論理を優先し、責任の所在を有耶無耶にしてしまう自己責任意識の低い人間が多い国のこの混沌とした状態が改善されるには、政治経済のシステム以前に、一人一人が高い理念と意思を持つ必要がある。そのベースとなるのが霊性なのだ。合理的精神や損得勘定の計算ロジックの“思考”とは別次元にある、精妙な周波数の高いエネルギーを切り捨ててしまったのが今の日本人だろう。

 個人が自分自身の足で道を歩く為には、高いレベルからの信号を正しく受け取れるように審神者(さにわ)の能力を高めることが大事だ。一旦捨ててしまった霊性を取り戻すには、マインドコントロールされた物質優先経済優先権利優先のロジックや、エゴの殻を壊すことだ。そして宇宙の大いなる存在と気の交感して閃きを受け取ることで自分の歩み方が見えてくる。そのためには先ず“捨てる”という言葉を意識して、その閃きを試してみて欲しい。

 高いところから来る閃きを自分のものと出来ること、それが一番信頼の出来る、確実な自分自身の力なのである。権威者や社会システムに魂を売り飛ばさずに、混沌とした世の中を雄々しく生き抜くための力なのだ。そして、それは“捨てる”ことから道は開ける。ともかくも一旦は捨てることだ。禅宗の例え話にある様に、水瓶に入った腐った水を全部捨ててしまわない事には綺麗な水に入れ替える事は出来ないのだ。何かにしがみつきながらよりよいモノ(状態)を得ようとする事は根本的な意識の転換にはならない。手放す事から転換は始まる。
 この時、低次な自我は抵抗しあれやこれや理由を付けて自己肯定の論理を展開するであろう。苦しいときほどこの抵抗は強く、自分自身をも騙そうとする(仏教に於ける運の捉え方-私見にも書いた様に)。所謂、社会的に頭の良い人間程、自分に都合の良い論理の展開は得意である。この状態を抜け出すには常日頃、自分自身の感情の流れを客観的に観察、内観できる眼を鍛えておく事が必用である。そうすれば低次のエゴから発信されている欲求なのか、高次のソースから来る閃きなのかを見分けやすくなる。所詮、エゴで乱れた粗い周波数しかもたない者に深い部分から来る閃きをキャッチすることは出来ないし、何か閃きの様なものが来たとしても只の低次のエゴの欲求を閃きと勘違いしているだけである。
 ところが自分がしがみついているものを手放す事を決心して肝を決めると途端に深い部分から来る閃きも生まれ、そして実際に現実の中でシンクロニシティが起きて道は開けていくのである。この現実社会の中で物事がスムーズに運ぶということが一つ大事な基準である。

 つまりその閃き(フィーリング)を受け取り、流れに乗る力を確実なものにしていくためには、他人や地球、すべての存在のために受け取ったものを使うことである。水と同様、エネルギーは流れることで清らかさを保ち、よりパワフルになるのである。そしてそれがやがて自分の力(智慧)となる。
 また、実際に現実の中でスムーズに物事が実現されることで、それが縁ある人々の集合無意識の総意であることも了解されるであろう。それが大いなる存在・高いレベルの自己・縁ある人々の集合無意識から授かった自分自身の役目を果たす事であり、閃きの源泉からの信号を更に明瞭に受け取れる為のステップでもある。
 勿論の事、このスムーズと言うのは何の抵抗も無くと言う意味ではない。当然ネガティブな意識、抵抗勢力の抗いは起こるが、それを超える後押しのシンクロした不思議な流れが出来、物も揃い、協力者も得られると言う事である。また時と場所というファクターもあるので、力尽くで押し進めずに流れを観るという感覚的な部分を大切にしながら、出たばかりの芽を育てるという位のつもりで実現のタイミングを観る事も実作業では大事かと思われる。

 何れにしても客観的に自分の意識と行動を観察する、第三者の眼を自分の意識の中に作り、その上でトライしてみて欲しい。やがて、恐れと不安の意識とは違う次元の意識と繋がることが多くなっているのを自覚することと思う。そういう方々が少しでも増える事で我々の社会の転換が為され、幸せな人・仲間が増えていくのであろう。意識の底では皆繋がっているので一人一人が変化する事でこういった精妙な次元での出来事は後押しされる。こういった一般的には奇跡的とも思われる様な出来事もを起こすにも、けっして宗教的活動や教祖などに身を任せる必用はなく、心の向きさえしっかり保っていれば日々の生活の中で訓練できることである。また日常の生活を当たり前にやりきる事が自身の魂の一番の厳しい修行であることは言うまでもなく、象牙の塔に籠もっている様な宗教的な活動の中に於いて美しい事を仲間内で述べて、自分自身が清らかになったと勘違いする事を防ぐ意味でも社会生活の中で自己実現していく事が根本であることを改めて肝に銘じたい。・・・以上、この大転換の時代に智慧の道を歩もうとする友へ、まだまだレベルは低いもののささやかな経験を分かち合う事が出来ればと思い此処に記す。合掌

by T.T


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