No.57

              病めるアメリカ


テレビなどでは余り見えてこないが、現実はこうだ。

アパラチア山系に跨る2州、オハイオ川を挟んだ西のオハイオ州と、東のペンシルヴァニア州。
ここにも先頃、ヒラリー・クリントン氏とドナルド・トランプ氏が遊説に訪れていた。
この辺りは、アメリカで(殊に、東部のエリート族からは)「山の人」
(Hillbilly)と揶揄される。

どんな処か?どのような特徴を持ったアメリカか?

かつてはそこは、鉱工業の盛んな地域であった。
自動車産業、鉄鋼産業、石炭。当然そこには、勤労世帯の家々が並んでいた。
だが、それらの産業が今はもうない。そこにはもう、勤労者のための働き口は存在しない。
町は正に廃墟と化してしまった(ある人は、「中国が100万人の職を奪って行った」という)。
今、そこに存在するのは恐ろしいような荒廃である。


オハイオ州オハイオ郡内をとると、
2015年中の薬物乱用による死者の数が、自然死の数を上回った。
無論、そのような社会では、家庭崩壊がひどい。家庭内不和と暴力、離婚などである。

かつては、この東西に並ぶ2州は「バイブル・ベルト」(福音書地帯)と呼ばれた。
今は日曜日教会に行く人自体が、ガタ減りしてしまった。

NPR(8月4日)は、そのオハイオ州の小さな鉄鋼の町Middletownで生まれ育った
新鋭作家J.D. Vanceを取材している。

彼の近作“Hillbilly Elegy”は、こうした舞台、こうした地域の人々を描いている。
そこの人々が、そのように崩落して行く姿を、語っている。

「あなたご自身の家族への影響は?」
と訊かれたVance氏は答えている。

「母も麻薬中毒と闘っていた。何回か結婚、離婚を繰り返し、どれも巧く行かずに
…実際、私が本を書き始めた頃、私は母に対し怒っていました。
だが、今は違います。この病が、いかに蔓延しているか、うちの家族だけの問題じゃない。
社会全体が罹っている病だと判りました」。

NPRの記者が、
「あなたは、ワシントンポストにも『白人労働者階級は、いかにして愛国心を失ったか』という、
これ以上悲惨な見出しはないというような、現代政治に係る記事も出されてますよね」
と訊ねたのに対し、Vance氏は答えた。

彼の祖母に1時間、「お婆さんの一生は、どうだったの?」と訊ねた。
得られた返事により、今のアメリカとW.W.U中のアメリカとを次のように対比したものである。

お婆さんは、Vance氏の質問のうち、生い立ち、結婚、子供と育児のことなど、
全部合わせてたったの15分で喋り終えた。
残り45分をW.W.U中のアメリカ、そこでの人々の生き様、体験、社会の雰囲気を喋っていた。
W.W.U中の時代にこそ、アメリカにとって最も偉大な世代が生きていたのだ。
その人々が、地上で最良の国に生きていると実感していたのだ。

彼は更に続ける。

「トランプ氏が『アメリカを偉大にする』と言っているが、
ということは、『今は偉大ではない』と言っているのに等しい。
その一方で、今子供をアメリカ合衆国軍に入れようとする人々、
愛国歌を熱唱する人々が猛烈に増えている
…この2,30年来の現象だ。これは、私などの信条とは違う
…私の信条は、『この国では、まじめに働きさえすれば、きっと素晴らしい人生が拓ける…』
というものであったのに…」

ここで再び記者が
「トランプ氏の話が出ましたが、あなたの作家人生…アパラチアでの人生を通して、
何かトランプ氏的ではないもの、今我々が失ってしまったものに、気付いたことがありますか」
と訊ねたのに答えている。

「地域社会での宗教の役割が見失われてしまったことでしょう。
殊に、リベラルなエリートの人々にとって、見失われてしまった。
オバマ大統領が2007年、2008年に言っていますよね。
『こういうアメリカの信条を失ってしまった人々が、銃と宗教にしがみついている』と。

銃のことはさておき、宗教について言えば、人々は、しかしドンドン教会から遠ざかっています。
短大卒以上の白人層はまだましですが、高卒の白人労働者クラスの間では、
教会へ行く率がガタッと下がっています。
教会へ行くことの意味は、それにより僅かに残っていた地域社会との、
人と人とのつながりを保つ道になっていた点です
…この20年での最大の変化は、住居地域(金持ちと貧乏人)の分離です。

人々は今や、『他人のことを気に掛けない…』のではなく、
『色々な人と交わっていない、互いに違いを見つけあったり、
問題意識を共有し、意見を交したりすることがない』、ということでしょう」。



                                 2016年9月1日