No.45
                 黒人パイロットたちの退役


第2次大戦中にアメリカ空軍の中に、
黒人を中心とするタスケギー航空隊
Tuskegee Airmenが出来た。
(タスケギーとは、アラバマ州郡モンゴメリーの東にある町で、
早くから黒人の大学Tuskegee Instituteが出来たことで知られている)。

それまで、黒人が飛行機を操縦するなどということは、無理だと考えられていたが、
1939年に初めて黒人のパイロット養成のための連邦予算が設けられた。

NPR(7月6日)は、7月4日(月)に94歳で亡くなった黒人パイロット
Roscoe C. Brownのために、ニューヨーク市内で半旗が掲げられたと伝えている。
彼は、それこそタスケギー航空隊の中の“Red Tail”と呼ばれた
戦闘機隊の隊長であった(黒人として、そうした途をつけた最先達とされる)。

それは後翼を朱色に塗ったプロペラ機、P-51ムスタング戦闘機
(Mustang)で、
B-29爆撃機の護衛などにも活躍した。

いくつもの勲章も得ている彼は、退役後の1970年代、
ブロンクス・コミュニティ・カレッジの学長を長くしていたなど、
その働き(社会への貢献)は、単に軍人、エアマンとしてだけではない。

だが、彼のような傑出した黒人パイロットは別として、
他の多くのタスケギー航空隊員だった黒人らは、その後どうなったか。

白人のパイロットであれば、退役後の人生は、民間のパイロットと大体決っている。
しかし、黒人の場合、民間への入り口の扉は永らく閉ざされてきた。

公民権運動の1つの山場となった1965年(前年の公民権法
(Civil Rights Act of 1964)に続いて、
投票権法Voting Rights Actが成立している)に、この永年の宿題への解決が出された。

黒人のベテランMarlon Greenは、コロラド州の人種差別禁止法違反であるとして、
かつてコンチネンタル航空が営業を開始したコロラド州の
反差別委員会に救済を申立てたところ、それが認められ、
申立人にも採用試験を受けさせるよう求める決定が相手方の同社に対し出された。

この決定を不服として、航空会社は裁判所に訴え出たところ、コロラド州裁判所は、
州法である同法は、州際航空会社であるコンチネンタル航空には適用がないとして、
反差別委員会の決定を引っ繰り返した。

事件はコロラド州最高裁に上告されたが、
そこでもコロラド州の裁判所の決定を維持したため、反差別委員会は連邦最高裁に上訴した。

そこで出た判決では、結論として
黒人のベテランエアマンMarlon Greenを実質的に勝たせていて、
反差別委員会の申立を認めている*。

判決中で連邦最高裁は、
コロラド州の求める「人種差別をしないように…、との要求は、
憲法の州際商業
(Interstate Commerce)に不当な圧迫を与えるものとは言えない…」
と述べている。


*Colorado Comm’n v. Continental Air Lines, Inc. 372 U.S. 714 (1963)

                                2016年7月11日