No.16
              
トーマス・モア


NPRは、400年前に亡くなったWilliam Shakespeareの
現存する唯一の手書きの台詞(script)の一部が、
大英図書館からインターネット上で公開されたことを伝えている(2016年3月16日)。

「トーマス・モアの本」“The Book of Sir Thomas More”という、
アメリカのオレゴンでの1983年の会合で再製された、ある劇本の中の一部の台詞である
(光を当てているのは、それが難民についての台詞であり、
社会に不必要な波乱を巻き起こすことを避けるため、これまで公開が控えられていたとする)。


当時は、カトリック教と新たに起こってきた新教との対立が、ヨーロッパの各国で激化し、
たとえばフランスからは、ルイ14世王(Louis]W)の迫害から逃れるため、
John Calvinが主唱したカルビン派の一派、「ユーグノー」(Huguenot)の人々が、
大量にイギリスへ出国してきた(18世紀初頭までに、50万人に達したとされる)。

このThe Book of Sir Thomas Moreという題の劇の、Moreが主人公の芝居では、
Moreは、彼の仕えていた王、ヘンリー8世の施策
(多くの難民を排除しないで、受容れていた)を擁護する。

その中で、シェイクスピアが走り書きした原稿、残っている部分では、
過剰な難民の奔流に大反対のロンドン市民らが、喚き叫んでいる、正にその台詞である

(NPRは、この阿鼻叫喚を、
群衆の「山のような非人間性」(mountainish inhumanity)と紹介している)。


「この外国人どもを殺せ、喉元を切れ、叩き潰してくれ。
住いを没収しろ!猟犬を放つように、法を適用しろ。
だが、何と言うことだ。…犯罪者らがうめくと、王が…王は情を示す。
こんなに大勢が来ても、追及しないで…たいして邪魔にもならないというのか
…一体どこに行ったら気が済むんだ。どの国なら休めるというのだ。
行け。フランスでもフランダースでも、ドイツのどの県でも、はたまたスペイン、ポルトガルでも。
だが、このイギリスには何処にも、へばり付く処なんぞはない!」



トーマス・モア(1478〜1547)は、かなり高名な法廷弁護士・裁判官を父に、
シェイクスピア(1564〜1616)の2世代前のイギリスで生れた。

当時、ロンドンで一番とされる学校を出て、オックスフォードに行ったが、
そこでギリシャ古典に魅入られたため、父が法律実務の世界に連れ戻して法律家となった。

トーマス・モアは、このヘンリー8世から殊のほか愛され、それが却って災いした。
と言うのは、モアは王様が嫌いだったからで、相性がなかった。

殊に、彼が敬虔なカトリック信者であったのに対し、
王は「自分こそ、この世で最高の存在」と考えていて、神様も、ローマ法皇の権威も、認めていなかった
(加えて、王は教会の教えに反して、妻Catherine of Aragonと離婚し、
スペイン王の娘Anne Boleynと結婚した)。

そんな中でモアは、王の発した「最高の存在」を宣言した法律
(Act of Supremacy)への宣誓を拒んだことで、王によって
1534年に監獄(Tower of London)に入れられてしまう。

14ヶ月後、彼は監獄から引き出されて、以前、彼自身がその地位にあった
最高位の司法官Lord Chancellor以下、18人の裁判官によって裁かれる。

その場でも、「今からでも遅くない…宣誓すれば、王が許すと言っている」と告げられたが、
拒み続けた彼は、12人の陪審によって15分後、有罪とされた。

その後、読み上げられた判決文は、次のようであった。

「ロンドン塔へ戻された後、そこから「罪人橇」にて市内を引き廻し、
Tyburn処刑場で半死状態になるまで首を吊る。
次に生きたまま、その急所を切り落とし、腸を裂き、内臓を焼き、その四肢は4つの市門にかける。
また頭は、ロンドン・ブリッヂに…」

ヘンリー8世王は、以上の刑を、「首の即断」に軽減した。

1535年7月6日の刑の執行の日になると、
刑場へ向うために彼は、Tower of Londonから引き出されたが、
かつて彼がLord Chancellorであった時に、不利な判決を受けた面々が、
彼の姿に向かって悪口を浴びせかけた

(その1人の老婆に対し、彼は言い返したという。
「その件はよく覚えているよ。今もう一回来たら、全く同じ判決を下してやる…」)。

彼の首は、ロンドン・ブリッヂに数か月架けられていたが、娘が買受けたという。

また、この処刑のニュースがもたらされたとき、
カード遊びをしていた王は、新しい妻Anne Boleynに、
「彼が処刑された原因は、お前にある」と述べたとか

(そのAnne Boleynも、不貞の罪(adultery)により、それから11か月後には処刑され、
王は更に別の4人の女を妻とするが、その中の人も、やはり処刑されたという)。

ヘンリー8世王の治世中のイギリスでは、1ヶ月に120人の処刑が行われていた
(なお、モアは1935年にカトリックの聖人に列せられた)。

(以上、主としてduhaime.orgより)。


                                  2016年3月24日