もうひとつのMacintosh物語


  1. AppleUの日本上陸、そこからマッキントシュストーリーは始まった
    1977年10月、AppleUが初めて日本の土を踏む。その瞬間こそ、まさに現在まで続くマッキントシュストーリのスタートであった。 AppleUを日本に初めて持ち込んだイーエスディラボラトリにスポットを当てる。
    • 曽田敦彦氏。
    • 1977年の水島氏とAppleUの出会い。水島がアメリカのWCCF(West Coast Computer Fair)に行ったとき面白いマイコンを見つけた。そのときWCCFでAppleUの説明をしていたのがSteve Jobs。
    • 1977年8月、アメリカへアップルへ。
      日本初のAppleU販売店、ESDラボラトリの誕生。
      曽田氏は東レリサーチセンターでの本業の傍ら、幻の本と言われるAppleU最初のマニュアル、通称「赤本」をはじめとしたマニュアルの翻訳や、AppleU用のプログラム製作などを手伝う。
    • 常識を逸したAppleUの故障率。
  2. AppleUの販売拡大を狙った総代理店探し
    1979年5月、「マイクロコンピューターショウ」において曽田氏はジーン・カーター氏と偶然再会。
    マスターディストリビュータを探しにきた。なんならうち(東レリサーチセンター)でやってもいいよと。
    • 東レがAppleUの販売総代理店として登場。
  3. たった1年限りのAppleU販売を進んで引き受けた日本企業
    日本におけるAppleU販売拡大を目指すアップルは日本の総代理店となるべき企業を探す。そこに現れたのが東レであった。コンピュータという全く異質な事業に東レは挑戦したのだ。
    • 羽田孝人氏
    • 1980年3月、東レ本社ではAppleと総代理店契約を結ぶための準備が着々と進められていた。
    • 1980年7月、正式契約。
    • あっという間に1年がすぎた。一年で契約解消となる予定であったが、東レはもう1年契約を交わす。いまだアップルジャパンが設立されていなかったから。契約解消。アップルにはノックダウンができないことを理由にした。こうして2年に渡った東レの総代理店は解消された。契約条件の通り在庫はすべてアップルが買い取り、最終的には東レはこの総代理店事業を黒字決算で事業を終えた。1982年6月のことだった。
  4. 最初の主人公は静かに表舞台から去っていった。
    東レがアップル事業から撤退した後、再びイーエスディーラボラトリがアップルカルチャのメインストリートに返り咲く。しかしその行く手には思わぬ運命が待ちかまえていた。
    • 羽田孝人氏、内田則政氏
    • 羽田氏、東レを辞め、イーエスディーラボラトリに。ESDが結局、AppleUの総代理店になりその卸業務を担当する。
    • 新機種Lisaの登場。
    • アップルジャパンの裏切り。アップルが突然、キャノン販売との業務提携を発表。
    • 1983年暮れ、イーエスディーラボラトリは一方的に総代理店の契約解消を告げられる。
    • 羽田氏は、出資者を募り、自分たちで新しい会社を作る。1984年6月、株式会社ハイテックスを設立。親会社は巴商会。社長は羽田氏。アップル製品はキャノン販売から仕入れた。
return to main prepared by M.Ono 2002.8.16