●レジー・ルーカスの原点

アフリカ回帰的な音楽をやっていたエムトゥーメに対し、1972年にマイルス・デイヴィス
のグループに加わる前のレジー・ルーカスは、フィラデルフィアの音楽シーンで働いてい
た。R&B歌手の、ビリー・ポールのバンドにいたそうだ。その当時のフィラデルフィア
は、ケニー・ギャンブル、リオン・ハフ、トム・ベルといった、優れたR&Bのプロデュ
ーサーが集まっていた。彼らが手掛けた歌手やグループは、ちょうど1972年頃からR&B
の枠をこえてポップ・チャートで大ヒットを飛ばすようになっていく。1972年のチャート
をみても、スタイリスティックス、スピナーズ、ビリー・ポール、オージェイズ、ハロル
ド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツなどの、キラ星のような名曲達が名を連ねている。
それらの曲は、やがてフィラデルフィア・ソウルと呼ばれるようになる。ルーカスがいた
のは、そのような楽曲を生みだしていたまさに中心地であった。
cover

■70年代のマイルス・デイヴィスを支えた
 ギタリストのレジー・ルーカス。
 エムトゥーメとの音楽制作で業界で名をあげ、
 後にマドンナをプロデュースして大成功をはたす。

cover

■Billy Paul / 360 Degrees of Billy Paul
 ジャジー、ファンキー、ソウルフルとR&Bの良いとこ
 ろをすべて持っている大人向け歌手のビリー・ポール。
 レジー・ルーカスは演奏には参加していないようだが、
 このような音楽を日夜演奏していたと思われる。

ルーカスは、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードの録音に係わっている。 フィラデルフィア・インターナショナルは、ケニー・ギャンブルとリオン・ハフがつくっ たレコード会社で、次々とヒット曲を飛ばしはじめていた。彼らのレコード制作を演奏面 で支えていたのが、MFSBと呼ばれるセッション・ミュージシャン集団である。ルーカ スは、そのMFSBのメンバーだった。フュージョン期の数々のレコードに参加している ベース奏者のアンソニー・ジャクソン(ルーカスとは高校時代からの知り合いらしい)、 マイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』に参加したキーボードのハロルド・ウィ リアムズらとともに、MFSBのファースト・アルバムに名前がクレジットされている。 MFSBとしてのクレジットは、イントルゥダーズやオージェイズのコンピレーションに も見受けられる。しかし、本当に参加したかどうかは調べてみないとよくわからない。
cover

■MFSB / MFSB 
 後にTV番組「ソウル・トレイン」のテーマで大ヒット
 をとばす、MFSBのファースト・アルバム。
 1972年のマイルス・デイヴィスの音楽に関わってくる、
 ハロルド・ウィリアムズがルーカスと共に名を連ねる。

MFSBの仕事は、ルーカスとしての個性は要求されない類の仕事なので、実際の音源で 参加を確認することは難しい。それ以前にデイヴィスのグループに参加する前のルーカス は、まだミュージシャンとしての個性など確立できていなかったと思われる。当時のルー カスはまだ10代の若手であり、ボビー・エリやノーマン・ハリスといったMFSBの看板 ギタリストに比べれば、経験から出番も少なかったと思われる。その後のルーカスを考え たときの着目点は、フィリー・ソウルの中心地で、ソウル・ミュージック史上でもっとも 個性的といえるギャンブル&ハフというプロデューサーのもとで、ルーカスがプロフェッ ショナルなセッション・ミュージシャンとして働いていたことだと思う。フィリー・ソウ ルのきらびやかなサウンドをキーボードにおきかえたような、エムトゥーメ&ルーカスの サウンドを聴くと、ルーカスが受けた影響は少なくなかったと思うのである。
cover

■The Intruders / The Hits
 ギャンブル&ハフがフィラデルフィア・インターナショ
 ナル設立前からプロデュースで関わっていたグループ。
 ルーカスが参加しているとすれば、1973年の『セイヴ・
 ザ ・チルドレン』あたりの収録曲だろうか。

cover

■The O'Jays / The Essential The O'Jays
 名盤の『ブラック・スタッバーズ』には、ルーカスは
 クレジットされていない。参加しているとすれば、
 『シップス・アホイ』か『サヴァイヴァル』あたりか。
 そうなると、デイヴィスのグループへの参加後か?。

トップ・ページへ戻る