1969年の8月、ニューヨーク州ベセルという街の酪農場で、芸術と音楽のフェスティヴァ ルが3日間にわたって行われました。”ウッドストック”の名で知られるそのフェスティ ヴァルは、ロック・ファンならば誰でもその名前を聞いたことがあるでしょう。フェステ ィヴァルを記録した映画も公開されました。”愛と平和と音楽の3日間”というキャッチ ・コピーのとおり、映画に映し出されたアメリカの若者達の姿は印象的でした。音楽を楽 しむのみならず、雨が降った後は泥だらけで遊び、会場近くの池で全裸で水浴びをし、そ の辺の草むらで愛を交し合う。ウッドストックに集まった自由を満喫するアメリカの若者 の姿に、当時中学生だったぼくは、日本のテレビでやっていた青春ドラマ以上の青春さ・ 自由さを感じたものです。しかしそのラヴ&ピースの時代を象徴するようなウッドストッ クの記録映画には、一つだけ奇妙なシーンがあったのです。 それはシャ・ナ・ナというグループの登場シーンでした。映画のラストに登場して、ナパ ーム弾投下のような爆音を交えて《アメリカ国家》を演奏したジミ・ヘンドリックスをは じめ、強烈なリズムが交錯するサンタナ、激唱するジョー・コッカー、強烈なまでにファ ンキーだったスライ&ザ・ファミリー・ストーン、相変わらずのギター壊しのザ・フーな どの熱演が続く中で、見事なまでに場違いなグループがシャ・ナ・ナだったのです。その 姿は、コーニーというよりもファニーでした。シャ・ナ・ナは、”50年代の”ニューヨー クのストリート・カルチャーを嗜好するダンサーとバンドが合体したユニットだったので すが、ヒッピー・カウンター・カルチャーの象徴のようなウッドストックの会場では見事 に不釣合いでした。しかし、彼らがウッドストックでぶっ放した曲は、ぼくの頭に強く残 ったのです。その曲は、ダニー&ザ・ジュニアーズの《アット・ザ・ホップ》でした。 《アット・ザ・ホップ(邦題:踊りにいこうよ)》は、1958年の全米No.1ヒットです。歌 ったのは、ダニー&ザ・ジュニアーズという白人4人組のヴォーカル・グループ。ウッド ストックのシャ・ナ・ナがファニーだったように、この曲の魅力もファニーなところにつ きると思います。ジェリー・リー・ルイスのような強烈なロックンロール・ピアノで始ま り、「ファー、ファー、ファー、ファー」と上昇していくコーラスは、聴きようによって はとてもユーモラスです。テレビでツッパリがカッコつけている姿を面白おかしくコント にしてしまうことがありますが、《アット・ザ・ホップ》にはそれと同じ感覚の面白さが あると思います。この曲がヒットした当時のダニー&ザ・ジュニアーズは10代の若者達で したが、その10代の白人の彼らが黒人のドゥ・ワップ・スタイルのコーラスを懸命に真似 ているからどこかしらユーモラスなのかもしれません。 この《アット・ザ・ホップ》には、作者のジョン・メドラに関する面白いエピソードがあ ります。当時のメドラはレコードを出したばかりの若い歌手で、アマチュア時代のダニー &ザ・ジュニアーズは彼の住んでいたアパートの近くの路上で練習をしていたそうです。 その歌声を聞いたメドラは彼らを気に入り、やがてメンバーの一人のデヴィッド・ワイト (彼も作者の一人)と意気投合したと思われます。そしてメドラは、地元のレコード制作 者のアーティ・シンガー(彼も作者として名を連ねている)にジュニアーズの面々を紹介 したようです。メドラとワイトは一緒に曲を作り、シンガーの手によって録音が行われま した。その曲は《ドゥ・ザ・バップ》という名前でした。リード・ヴォーカルはメドラ。 ダニー&ザ・ジュニアーズはバック・コーラスを担当しました。メドラはレコードを出し ていた歌手、ジュニアーズの面々は10代のアマチュアですから当然の役割分担です。 この《ドゥ・ザ・バップ》こそ《アット・ザ・ホップ》の初期の姿であり、ヴォーカルと 歌詞以外は殆ど差がないヴァージョンなのです。その頃メドラは、後にビートルズをアメ リカで配給するキャピトルと契約し、キャピトルに《ドゥ・ザ・バップ》を聞かせますが 、キャピトルはこのロックンロールの傑作を没にします。宙に浮いた《ドゥ・ザ・バップ 》は、シンガーの手により地元のテレビ番組の司会者に渡されます。その司会者の「バッ プは古い、ポップでいこう」という提案により歌詞は書きなおされ、おそらくメドラには キャピトルとの契約があったためダニーのヴォーカルで再録音されます。そのヴァージョ ンこそ、全世界で大ヒットした《アット・ザ・ホップ》なのです。ロックンロール史に名 を残し損ねたメドラは、その後もワイトと共作をつづけていきました。二人の間に生まれ た友情は、大ヒットの後も変わることがなかったのでしょう。