ぼくが好んで聴く音楽は、音楽を演奏する空気感やグルーヴが、その演奏から伝わってく る音楽である。この空気感やグルーヴ感が全く感じられない音楽は、繰り返し聴きたいと は思わない。コンピュータやシンセサイザーといった機器が登場して、音楽を演奏するこ とができない人でもプログラミングやサンプリングなどの方法で音楽を作れるようになっ た。コンピュータやシンセサイザーは、音楽を作る側がそれらの機器をうまく使わないと 、最終的に音楽から空気感を奪ってしまう。そのような音楽を全て否定するつもりは全く 無いが、プログラミングなどの方法のみで作られた演奏を聴いていると、空気感やグルー ヴ感の感じられないものが多く辟易してしまうことが多い。必然的に、ぼくの家のCDプ レーヤーやターン・テーブルにのるCDやレコードは、ミュージシャンの手によって奏で られた音楽がいっぱい入ったアルバムとなる。 ボブ・ディランの『ショット・オブ・ラヴ』も、そんなアルバムの一つだ。そして、この アルバム収録されている《ハート・オブ・マイン》という曲。これが良いのだ。何回でも 、聴きたくなるのである。曲そのものは、ディランの最高傑作というわけではない。事実 、《ハート・オブ・マイン》は別のヴァージョンが『バイオグラフ』というアルバムに収 録されているが、こちらのほうは別に何回でも聴きたいとは思わない。しかし『ショット ・オブ・ラヴ』の《ハート・オブ・マイン》の場合は、何度でも繰り返して聴きたいと思 わせるのである。理由を考えてみると、結局は『ショット・オブ・ラヴ』の《ハート・オ ブ・マイン》の演奏そのものが持っている空気感、グルーヴ感が好きなんだということに いきつくのである。この空気感、グルーヴ感が与えてくれる、まるで初夏の陽射しのよう な明るいパワーに浸りたくて、ぼくはこの曲を繰り返し聴いてしまうのである。 演奏メンバーは、腕利きのセッション・ドラマーのジム・ケルトナー、オーティス・レデ ィングなどのシンガーを支えたブッカー・T&MGsのベーシストのドナルド・”ダック ”・ダン、ローリング・ストーンズのギタリストのロン・ウッド、そしてオルガンのWM ・”スミッティ”・スミスと、なぜか元ビートルズのリンゴ・スターがタム・タムで加わ るというものだ。このメンバーにディランのピアノとヴォーカルが加わり、当時のディラ ンの愛人だった黒人女性シンガーのクライディ・キングがハーモニーを付ける。演奏は、 ぼくが当初ディランに馴染めない要因の一つであったラフ(悪く言えば雑)なものだ。ロ ン・ウッドもリンゴ・スターも、いるのかいないのかわからない。ただただ、みながひた すら演奏しているだけ。そこがイイ。ヨッパライが気持ち良さそうにひたすら何かをして いることがあるが、みんなそんな顔をして演奏していたのではないか。そんな気がする。 ディランが、このジャム・セッションの延長のような《ハート・オブ・マイン》をOKテ イクにしたのも、多少のラフな部分に目をつぶっても演奏の空気感を大事にしたかったか らだろう(ディランは細かいことを気にするようなタイプとは全く思えないが)。そのよ うな判断を自分でしたのだとしたら(おそらく間違いないだろうが)ディランはエライ。 普通の凡人ミュージシャンだったら、上手く演奏できるまで「もう一回」ということにな っているところだろう。おそらくディランの「演奏なんか多少雑でも、これでイイのだ」 という確信が、この《ハート・オブ・マイン》を傑作にしたのだろう。聴きどころは、な んといっても一番のびのびとした時期のディランのヴォーカルと、まるで正反対のように 落ち着かないピアノ。そしてヨッパライオヤジのようにひたすらギターを弾いているロン ・ウッドが、一瞬だけ気持ち良さそうにリフを挿み入れるところである。 そんな《ハート・オブ・マイン》の収録された『ショット・オブ・ラヴ』であるが、他に もズンチャ・ズンチャの繰り返しが気持ち良い《プロパティ・オブ・ジーザス》、《ハー ト・オブ・マイン》よりもラフ(なんとベースが入っていない)な80年代ぽいポップ風の 《ウォータード・ダウン・ラヴ》、夏の夕暮れのような《イン・ザ・サマータイム》、そ して美しいハーモニカの調べが堪らない80年代ディランの最高傑作ナンバー《エヴリ・グ レイン・サンド》など、演奏そのものが持つ空気感が良い曲が多いアルバムである。ボブ ・ディランの全アルバムの中では”キリスト教三部作”の一つに数えられ、無視に近い扱 いを受けることの多いアルバムだが、ぼくらもディランを見習って細かいことは気にせず に耳を傾けよう。どーせぼくらのような絶対的な神様を持たない日本人には、ディランの 歌う英語の歌詞もキリスト教もわかんねーのだから。