さすがに現在では誤解がとけてきてはいるものの、けっこういろいろなロックを聞いてい る人でも、いまだにボブ・ディランのことを単なるフォーク歌手と思い込んでいる人は多 い。おそらく、岡林信康や吉田拓郎といったフォーク世代の人気歌手の多くがディランに 関しての「影響を受けた」といった意味の発言をしていることや、70年代に大ヒットした ガロというグループの《学生街の喫茶店》の歌詞に出てくることから、60年代から70年代 に青春をすごした世代の人達にそのような傾向が多いように思える。しかし、言うまでも ないがディランは単なるフォーク歌手などではない。その音楽は、フォークという単一の ジャンルに収まるものではない。ロック史に残る傑作アルバムが数枚あり、ロックという 音楽を深く聴いていけば、誰もがいつの日かロック的なディランの音楽に必ず出会うこと になるのである。 しかし、これがまたディランらしいところでもあるのだが、ロック史に残るディランのア ルバムが、必ずしも聴きやすいアルバムとは限らない。例えば『ブリンギング・イット・ オール・バック・ホーム』。ディランがエレクトリックを大きく取り入れた最初期の傑作 であり、《ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット》や《ミスター・タンブリン・マン》 といった傑作曲が収録されていることから有名なアルバムだが、《サブタレニアン・ホー ム・シック・ブルース》というディランの個性の一面を全開にした非常にとっつきにくい 曲から始まるために、どこが良いのかよくわからずにそのまま放り出されてしまうことも 多いのではないか。ディランという人の音楽は、確かにそのようなとっつきにくい部分が あるので、「ロック名盤の上位に選ばれていたからアルバムを買ってみたけど、どこが良 いのかよくわからない」という人は、僕の周辺でも意外と多いのである。 それではベスト盤がロック的なディランを理解するのに適しているかというと、殆どのベ スト盤はフォーク時代のディランの代表曲の《風に吹かれて》ではじまるか、なかにはと っつきにくい代表曲のような《雨の日の女》ではじまるものもあるので、ディラン初心者 は手を出さないほうが懸命である。むしろ普通にロックやポップスを聴いている人ならば 、ベスト盤や、ロック名盤に必ず出てくるようなディランのアルバムよりも、それ以外の アルバムを聴いたほうが良い。僕がディランに開眼するきっかけとなった、80年代の傑作 『インフィデル』なんて、その筆頭のようなアルバムだ。ロックするディランがカッコイ イ『インフィデル』のような聴きやすいアルバムで、ディランのヴォーカリストとしての カッコよさに触れると、とっつきにくかった曲も「そーいうふうに歌いたかったんだ」と まるで氷がとけるようにわかってくるようになるのである。 僕にとって、『ニュー・モーニング(邦題:新しい夜明け)』もそんな聴きやすいアルバ ムの1枚だった。単に聴きやすいというだけではなく、日常的に聴く機会の多いディラン のアルバムである。『インフィデル』のようにロックしているわけではない。カントリー ・ロックのアルバムなどとも呼ばれることもある。それでも僕は聴きやすい『ニュー・モ ーニング』を愛聴している。1曲目が、オリビア・ニュートン・ジョンや、ジョージ・ハ リスンがビートルズ解散後の傑作アルバム『オール・シングス・マスト・パス』でカヴァ ーした《イフ・ノット・フォー・ユー》というのも、ロック・ポップス好きの人にとって 聴きやすいポイントだろう。ジョージを愛する(かつてはオリビアのファンでもあった) 僕にとっても、大きなポイントだった。しかし、このアルバムを愛聴するのは、それが理 由ではない。本当の『ニュー・モーニング』の魅力は2曲目以降にあるのである。 僕が『ニュー・モーニング』を愛する理由でもあり、このアルバムの大きな魅力となって いるのが、2曲目以降のいくつかの曲に存在するR&B、ブルース、ジャズといったブラ ック・ミュージックの香りだ。とくに2曲目の《せみの鳴く日》は、ディランの詩的な世 界と、サザン・ソウルとゴスペルがミックスされたようなサウンドがたまらない。夏休み の日記に出てくるような邦題からは想像できないが、そのブラック・フィーリングたっぷ りのサウンドにのせて歌うディランが堪らなくカッコイイ。なにもエレキをかき鳴らして いるディランだけが、ロックなディランではないのだ。なぜ、このサウンドで、”カント リー”などと呼ばれるのだろう。《せみの鳴く日》のようなサウンドにのってグルーヴす るディランは、『ニュー・モーニング』でしか聴けないのである。何度も繰り返して聴き たくなってしまう。この1曲のためだけに、このアルバムを買っても損はしないのだ。