先月の話しになるが、富樫雅彦が亡くなった。新聞(一般紙)にも、写真入りで死亡記事 が出ていた。しかし、ぼくの音楽仲間以外の周囲にいる人にもし彼のことを知っているか 尋ねた場合、おそらく知っている人は殆どいないであろう。いや、音楽仲間でさえ、TV で笑顔を振りまく”ナベサダ”こと渡辺貞夫のことは知っていても、どれだけの人が富樫 のことを知っているのか疑問である。さらに言えば、富樫というミュージシャンの音楽を 、どれだけの人が実際に聴いたことがあるか。もし、音楽が好きな人で富樫の音楽を聴い たことがなければ、一聴をお薦めする。少なくともぼくの聴いてきた富樫の音楽は、無造 作に音を垂れ流すだけのジャズや、ただスタイルをなぞっているだけのロックのようなも のではない。富樫の創った音楽は、いまでもぼくにこのような一文を書かせずにはいれら ないほど、ぼくに深い感銘と余韻を残してくれたものなのである。 富樫を知らない人のために、どのような人だったのかを書いておこう。興味をもったなら 、詳細はネットなどで調べるといい。富樫はジャズ・ドラマーとしてスタートし、即興を ベースに独自の音楽世界を築き上げ、最後は世界でも類をみないパーカッション奏者とな った人だ。なぜパーカッション奏者になったのかは後で書く。60年代後半には、演劇の唐 十郎、赤軍派宣言を行った映画監督足立正生と共に、新宿の3大天才と呼ばれていたとい う。ギラギラした人達がひしめきあっていた60年代後半の東京・新宿という街の中で、富 樫の名前は一部の人に轟いていたわけだ。同じ頃の新宿のジャズ喫茶には、後に富樫が作 品で取り上げることになる「連続射殺魔」の永山則夫がボーイとして働いていた。永山と 早番・遅番で交代のボーイがビートたけしこと北野武だったというのも有名な話だ。富樫 の音楽は、足立や永山のような反体制の人々が集まっていた新宿で鳴り響いていたのだ。 しかし当然のことながら、富樫の音楽は体制/反体制というものとは無縁である。60年代 半ばにスタートした富樫自身の音楽は、理知的にコントロールされ、サウンドは聴きての 心の中に絵を描こうとしているように感情に語りかけてくる。そのような特徴をもった富 樫の代表作が、1975年にライヴ・レコーディングされた『スピリチュアル・ネイチャー』 だ。富樫が60年代から演奏してきたフリー・ジャズの影響も(他のメンバーの演奏により )一部感じさせるところはあるが、この音楽を聴けば、ジャズを聴いたことがない人でも 特定のジャンルには属さない富樫自身の音楽だということがわかるはずである。10人のミ ュージシャンが奏でる音は風や大地の鼓動となって、日本人なら誰もが本質的に感じるこ とができる”水田の風景”のような田舎の情景が頭の中いっぱいに広がるのである。そし て見事な余韻。日本人ミュージシャンの手によってしか、生まれ得ない音楽だ。 『スピリチュアル・ネイチャー』を聴いて、ぼくの中で富樫は特別な存在のミュージシャ ンとなった。そもそも音階をもたない楽器のドラムやパーカッション奏者である富樫が、 『スピリチュアル・ネイチャー』のような類をみない音楽を創り出したことが驚きでもあ った。ドラマーとしてスタートした富樫は、騒然としていた60年代後半に不慮の事故にあ い、胸から下の自由を永遠に失った。誤解をおそれずに言えば、両手両足を駆使して音楽 を演奏するドラマーが両足の自由を失うということは、一般人の我々が片手や片目の自由 を失うこと以上のものであろう。しかし元々作品指向を持っていた富樫は、肉体的・精神 的苦痛を乗り越えて創作活動にうちこみ『スピリチュアル・ネイチャー』のような傑作を ものにしたのだ。この見事な作品の余韻は、初めて聴いた10代のその日から、ぼくの心の 中で永遠に消えることはないかのようである。 パーカッション奏者としてのジャズへの再挑戦といわれた晩年のグループのJ.J.スピリ ッツに先立って、ヴォーカリストの後藤芳子のバックで比類なき深さを持つ演奏でスタン ダード・ナンバーを披露した『ビコーズ』も忘れられない。しかし富樫のアルバムを1枚 を薦めるとすれば、いまのぼくは「連続射殺魔」永山則夫をテーマにした『アイソレーシ ョン』を選ぶ。リード奏者の高木元輝とのデュオで綴られる永山則夫の心情。富樫のドラ マーとしての最後の録音となった演奏だ。富樫によると、「みんな撃ち殺してやる」と同 時に「助けてくれー」というような心情、童心に返ったときの美しい故郷を思う気持ち、 どうにもならなくなったときの虚脱状態を表現したとのことだが、編集・合成された演奏 が描き出すのはなんと荒涼とした情景のことか。形のない心情を音階のないドラムで表現 した『アイソレーション』こそ、富樫の最高傑作だったといまつくづく思うのである。