前回、エリック・クラプトンについて書いた。要約すると、日本におけるクラプトン人気 というのは、クラプトンの見た目や、”レイラ”などにまつわる伝説などによって形成さ れていったのではないか、クラプトンの音楽は過剰に評価されているのではないだろうか 、といった主旨の話である。「クラプトンのギター・プレイなんて巷で言われるほどピン とこない」とも書いた。これは、クラプトンが他のミュージシャンと共演しているビデオ やCDなどで容易に確認することができる。上手いことは上手いのだが、ピンとこないの だ。来日公演も、ジョージ・ハリスンのバック・バンドとして来たときも含めて、おそら く海外ミュージシャンの中ではもっとも多く観ている人だが、ピンときたことはない。黒 人ブルース・ギタリストだったロバート・クレイを前座に従えて来日したときなど、「な んて汚い音のギター・ソロなんだ」と思ったら、クラプトンだったという始末だ。 そんな体験もあり、ギターの音色やフレーズのニュアンスといった点で、クラプトンが自 分の好みではないのだろうと思っていた。しかし、いつの頃からか、そーではないのでは ないかと思い始めた。クラプトンは上手いことは上手いのだが、よく考えてみると、クラ プトンのギターを”凄い”とか”感動した”と思って聴いたことはない。つまり、”ギタ ーの神様”といった先入観と伝説のフィルターをとおしてしかクラプトンを聴いてこなか ったのではないかと思ったのである。はじめてそのことに気がついたのは、確かボブ・デ ィランの40周年記念コンサートだった。ディラン、ジョージ・ハリスン、ニール・ヤング 、ロン・ウッドといった並み居るロック・スター達の後ろに隠れるようにして、自身でも カヴァーしたことのある《天国への扉》のリード・ギターを弾いているクラプトンを観て 、「クラプトンのギターとはなんなのだろう」と思ったのである。 ロックにおけるリード・ギターの存在とは、もっと”スゲー”とか”タマンネー”と思わ せてくれるものではないのだろうか。クラプトンのギターには、残念ながらそれがない。 みんな本当に凄いと思っているのだろうか。しかし、イイと感じるクラプトンの音楽も確 かにある。そのとき、はたと気がついた。ぼくがイイと思っていたのは、クラプトンのギ ターそのものではなく、クラプトンの音楽そのものだったと。クラプトンが、そのアルバ ムの演奏メンバーの一人として音楽に没頭して楽しんでいるようなとき、さらに言えば、 そこにクラプトンを触発するようなメンバーが一人でも参加している場合がイイのだ。” ギターの神様”がリラックスして”忘我の境地”で弾いているか、他人に触発されて本気 になっているときがイイのである。デュアン・オールマンを迎えたデレク&ザ・ドミノス の『レイラ』が傑作になったのは、その両方の条件を満たしているからなのだ。 そんなことをつらつらと考えていたら、クラプトン・ファンの友人から早速物言いがつい た。彼曰く、「70年代後半のからのクラプトンだっていいよー」。「うーん、そーかなー 、いい曲も確かにあるけどね。」と僕。「ちゃんと聴いてみなよー」と彼。そー言われて 思った。確かに僕は『スローハンド』以降のクラプトンをきちんと聴いていない。友人に 借りたりして1回か2回聞いたきりだ。70年代後半からはクロスオーヴァー、ジャズ路線 に突っ走ってしまったせいで、『スローハンド』以降はよく聴いていなかったのである。 そこで今回、きちんと聴いてみようと思ったのだ。そんでもって聴きました。結論からい うと、やはりこれだったら『レイラ』や『安息の地を求めて』のほうがイイなということ である。『安息の地を求めて』と同一のメンバーのアルバムなのに、ヒット曲や代表曲も 入っているのに、『スローハンド』は残念ながら部分部分しか響いてこない。 例えばクラプトンの代表作《コカイン》は、クリームの《サンシャイン・オブ・ユア・ラ ヴ》の焼き直しにしか聴こえない。全米で大ヒットしたカントリー調の《レイ・ダウン・ サリー》も、どこがいいのかよくわからない。このような曲調(カントリー・チャートで もヒットした)の曲が好まれるというところに、アメリカとの文化の違いを強く感じる。 しかし、イイ曲も含まれている。当時のクラプトン夫人で、元ジョージ・ハリスンの奥さ んのパティに捧げた《ワンダフル・トゥナイト》だ。この曲のギターこそ、クラプトンだ と思う。はっきりいえば、《ワンダフル・トゥナイト》のギターに、アルバムの他の曲の ギター・ソロ全てが負けている。唯一の例外が、アナログB面1曲目でゲストにサックス のメル・コリンズを迎えた9分近い《ザ・コア》だ。メルのサックスに挑発された、本気 モードのクラプトンが聴ける。『スローハンド』は、この2曲さえ聴けばよいと思う。