細野晴臣の中華街ライヴをきっかけにして、矢野顕子、渡辺香津美といった初期YMOの サポート・メンバーが当時やっていた音楽、および坂本龍一を中心としたカクトウギ・セ ッションを聴いてきた。とにかく1979年の4月から6月にかけて、ぼくの周辺ではこれら の音楽が主としてレコードやラジオからドドドドって連続攻撃をしかけてきたのである。 細野の中華街ライヴの《ファイア・クラッカー》(YMO結成の歴史に出てくる”手弾き ヴァージョン”に近いものと推測される)、細野のアルバム『はらいそ』の《ファム・フ ァタール》、オムニバス『パシフィック』に収録された《コズミック・サーフィン》の初 期ヴァージョン、坂本&カクトウギ・セッションの細野作《ニューロニアン・ネットワー ク》など、YMO的な音楽はどちらかというと後になって気がついた部分であって、ぼく が注目をしていたのは渡辺&坂本&矢野を中心とした六本木周辺の動きだった。 六本木周辺の動きは有機的に絡み合っており、矢野の《在広東少年》(矢野のソロ・アル バム、渡辺のKYLYNバンド、YMOライヴ)、坂本の《千のナイフ》(坂本のソロ・ アルバム、渡辺&坂本のカクトウギ・セッション、YMO)、坂本の《東風》(YMO、 矢野のソロ・アルバム、渡辺&坂本のカクトウギ・セッション)といった幾つかの曲は、 個々のプロジェクトを超えた場において演奏された。六本木でのこうした動きの中心人物 はなんといっても坂本であり、細野のYMOを中心とした動きは、あまり大きくマスコミ には取り上げられていなかったはずだ(ちなみに「ジャズ・ライフ」といったジャズ・フ ュージョン系雑誌にはよく登場していた)。これらの動きのキー・ワードは、ずばり”セ ッション”であろう。少なくともぼくにとっての”YMOの登場”は、これらの坂本を中 心とした動きの延長にあった。 そんな彼らの動きの集大成が、ニュースなどでも取り上げられたYMOの海外ツァーであ った。この時点で、国内のYMO人気はまだ爆発していない。YMO人気が爆発したのは 確か1979年の秋だった。それまでに大きく特集を組んで海外ツァーなどをレポートしてい たのは、ぼくの記憶では高校生向けの雑誌(いろいろとお世話になりました)の「GOR O」くらいだったはずだ。ぼくにとっての初期YMOの海外ライヴは、YMOのレパート リーを中心とした六本木周辺の坂本を中心としたセッションの海外進出であった。なにし ろ舞台が六本木からいきなり世界である。カッコイイこと、このうえなかった。そしてな によりも、音楽そのものがそれまでに全くない新鮮なものであった。よくYMOと比較さ れるバンドに、ドイツのバンドのクラフト・ワークがある。クラフト・ワークのレコード は物好きなぼくは持っていたが、YMOと比較すると全く退屈なものであった。 おもえば、この世界ツァーのフィードバックで殆どの人がYMOの音楽に初めて接したの ではないか。YMOの音楽はクラフト・ワークの音楽などよりもっと雑多であり、細野の もともとのコンセプト(エキゾチック音楽+ディスコ、サーフィン音楽+コンピュータ音 楽)に加え、意識的に持ち込まれた歌謡曲の手法(初期YMOはピンク・レディの《ウォ ンテッド》をレパートリーにしている)、当時流行の兆しがあったポスト・パンクの流れ 、そして渡辺+坂本の”東京フュージョン”がごちゃごちゃに混ぜ合わされていた。それ らのごちゃまぜコンピュータ音楽を世界中で堂々と演奏していたのだから、こんなにカッ コよいものはなかった。この時期のYMOの評価は、YMOの当事者の細野、坂本、高橋 の3人の中ではあまり高いものではない。テクノ、ニュー・ウェイブという流れで捉えれ ば、サウンドが未完成なこの時期の評価が低くなるのは致し方ないのかもしれない。 しかし音楽というものは、ミュージシャン本人がどう思っていようと、その思いと魅力が 音楽そのものと必ずしも一致するとは限らない。世界をまたにかけたセッション・バンド として魅力ある音楽を展開していたYMOは、初期の1979年の海外ツァーでのライヴでし か聴けないのである。だから『パブリック・プレッシャー・公的抑圧』での渡辺のギター ・カットは、当時心底ハラがたった。結果として坂本のシンセ・ダビング版のほうがニュ ー・ウェイブ度が高まったというような評価に落ち着いているようだがが、ぼくには後年 発売された渡辺のギター復活版のほうがだんぜん面白い。それが当時のぼくが熱狂させら れた六本木のセッションの延長としての音楽であり、また現場で鳴っていた生の音でもあ るのだ。DVDでも発売されているが、下記のライヴ編集盤『ワン・モア・YMO』に収 録された《千のナイフ》、《東風》でぜひその魅力を確認してもらいたい。