初期YMOを語るうえで、矢野顕子と共に忘れられないのがギタリストの渡辺香津美だ。 YMOの最初のワールド・ツァーに矢野顕子と共に帯同して、ライヴで一番アクティヴな ソロ・パートを演じていたのが渡辺のギターだった。いま残されているYMOのライヴ映 像を観ても、それまでのロック・ギターにはなかったような渡辺のソロに欧米人が驚ろき の拍手を送っている様子が確認できる。渡辺はどちらかというと古いタイプのジャズ・ミ ュージシャンの最後の世代の人で、難しいジャズの理論やスケールを先輩ミュージシャン のしたでみっちり学んだタイプの人である。そんな渡辺にとって、YMOの曲であろうと 何であろうと、ジャズをベースにした難しいスケールを散りばめてロックばりのソロを弾 きたおしてビックリさせるなどという芸当は朝飯前だったと想像する。今回はそんな渡辺 香津美が、当時どのようなことをやっていたのかにもふれておきたい。 いまでこそ”世界のサカモト”だが、1979年当時のYMO(および準レギュラー・メンバ ー)の一般の人への名前の浸透度は、おそらく次のとおりだったと思われる。1.矢野顕 子、2.渡辺香津美、3.細野晴臣、4.高橋ユキヒロ&坂本龍一。この順番は、当時高 校生だったぼくのまわりを基準としているので、おそらく間違いないだろう。少しうえの 大学生世代でも、おそらく上位3人は動かないはずだ。当時のぼくのまわりでは、いまの J−POP世代のような普通の高校生の音楽ファンでも、2の渡辺香津美までは名前くら いは知っていた。逆にYMOメンバーとなると、ちょっと音楽に詳しい人間でも3の細野 を”ベーシスト”として知っているくらいで、高橋&坂本にいたっては全く知られていな かった。一般的な認知度は、マスコミや音楽業界での注目度が高かった矢野顕子はともか く、渡辺香津美のほうがYMO結成直後のメンバーよりうえだったのだ。 渡辺香津美は、当時のフュージョン・ブームを代表する若手ミュージシャンで、数枚発売 されていたアルバム(海外の著名ミュージシャンとの共演を含む)はギター・キッズの注 目の的だった。渡辺は、当時4人編成のグループを組んでいたが、おそらく時代の風が彼 に心境の変化をもたらした。1979年という時代は、個性豊かな仲間どうしで作ったバンド が前面にでてきた年である。例えば、サザン・オールスターズ、シャネルズ(後のラッツ &スター)、カシオペアなどといったバンド名をあげればわかるだろう。このようなバン ドの特徴は、有名なミュージシャンのバックとして経験を積んで出てきたのではなく、音 楽好きの仲間が演奏技術を自分達で研磨して出てきたというところにある。これに対して 、注目を浴びていたフュージョン時代のスターであった渡辺は、実は先に書いたように先 輩ミュージシャンのバックで経験を磨いてきた古いタイプのミュージシャンであった。 渡辺にとって、カシオペアのような仲間同士で最初から集まって世の中に出てきたバンド は眩しく移ったのではないか。渡辺の心境をそのように捉えると、その後の行動が理解し やすくなる。新しい仲間を求めるような渡辺のセッションは、1978年末ごろから散見され るようになる。まず渡辺は、同じレコード会社だった坂本龍一のアルバム『千のナイフ』 に参加。そしてYMOの最も初期のライヴに、自己のグループのメンバー3人のうち2人 を引きつれ参加する。その後すぐに、自己のグループを解散。解散と同じ月に、六本木に あったピット・インで4日連続のライヴを行う。そのうち2日間は渡辺自身がプロデュー ス、後の2日間は”渡辺が得た新しい仲間”坂本龍一がプロデュースを行った。ぼくがラ ジオのエア・チェックで聴いたのは、おそらくこのときの模様だ。そして、この流れは、 フュージョン時代を代表するKYLYN(キリン)バンドとして結実する。 おそらくKYLYNバンドは、渡辺にとって気心のしれた仲間達と作った初めてのグルー プだったのではないか。スタジオ盤とライヴ盤を残しているが、スタジオ盤とシングルで でたブライアン・フェリーのカヴァー《トーキョー・ジョー》こそ、坂本龍一と繰りひろ げたピットイン・セッションを元にした音楽の作品化である。スタジオ盤は、A面では主 として渡辺のやりたいこと、B面では坂本プロデュースによる新しい渡辺の音楽が提示さ れ、矢野顕子の回で紹介した『東京は夜の7時』に収録されている矢野のオリジナル作品 《ウォーター・ウェイズ・フロウ・バックワード・アゲイン》のスタジオ・ヴァージョン も収録されている。最高傑作は坂本作《E−DAY・プロジェクト》で、当時TVのCM に使用されたポップさは、それまでの渡辺のアルバムには存在しなかった新しい魅力を確 かに携えていた。そしてYMOにいたる渡辺と坂本の蜜月は、まだまだ続くのである。