1957年という年は、一部ではまだ良俗を乱す音楽として蔑まれていたロックンロールが、 音楽的には一つのスタイルとして定着した年といえるでしょう。音楽スタイルとして定着 した理由としては、リトル・リチャードやファッツ・ドミノといった黒人歌手によって書 かれたオリジナルが、パット・ブーンに代表されるような健康かつ爽やかな白人青年歌手 によってカヴァーされヒットしたことで、一気に大衆化が進んだからだと思います。おそ らく当時の人々は、知らず知らずのうちに元はブラック・ミュージックであるヒット・ソ ングに親しんでいったのでしょう。レコード会社にしてみれば、売れる鉱脈を探りあてた ようなものだったのではないでしょうか。奴等の曲の権利を買い取って、白人に歌わせれ ば儲かる。そのような構図が出来上がっていったことと思われます。チャック・ベリーが 「白人は黒人の音楽を盗んでいる」怒るのも、無理はないような気がします。 このような動きはロックンロールだけではなく、黒人グループがメインだったドゥ・ワッ プにも及んできます。ドゥ・ワップは、ストリート・コーナー・シンフォニーと呼ばれて いた言われるとおり、元々は楽器を持たない黒人達が街角に集まってアカペラでヴォーカ ルとコーラスとリズムを分け合って歌うスタイルの音楽です。先にあげたグループによる R&Bチャートでのヒットで、次第にそのスタイルもラジオを通じて、全米だけではなく いろいろな地域に浸透していったことと思われます。ドゥ・ワップ・スタイルの曲が初め てポップ・チャート上位にくい込んだのは、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジ ャーズの《ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・ラヴ》ではないでしょうか。そして、 1953年に結成された白人青年4人組のグループの1957年の全米ヒットによって、決定的に そのスタイルが一般に知れわたったのではないかと思います。 ダイアモンズは、デヴィッド・ソマーヴィル(リード・テナー)、テッド・コワルスキー (セカンド・テナー)、フィル・レヴィッド(バリトン)、ビル・リード(バス)の4人 の白人青年からなるグループで、1953年にカナダのトロントで結成されたそうです。1955 年にマーキュリー・レコードと契約し、R&Bカヴァーでヒットを飛ばします。カヴァー した曲の中には、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの《ホワイ・ドゥ・ フールズ・フォーリン・ラヴ》もありました。黒人R&Bのカヴァーを続けるダイアモン ズは、1957年にR&Bチャートで小ヒットしたグラジオラスというグループの《リトル・ ダーリン》をカヴァーします。この曲が全米ポップ・チャートの2位までのぼる大ヒット となったのです。この《リトル・ダーリン》こそが、ドゥ・ワップ・スタイルを広く大衆 に知らしめる役割を果したのではないかと思っています。 イントロは、カスタネットの乱打という意表をつくものではじまります。フラメンコでも 始まるのかと思いきや、カウベルが”カン、カン、カン、(ンッ)カンカン”とベースと なるリズムを刻みはじめ、ピアノが空から零れ落ちるように流れると、「アー、ヤヤヤ、 ヤー」と一度聴いたら忘れられないデヴィッド・ソマーヴィルのファルセットが響きわた るのです。この幾分コミカルな印象も受けるファルセットは、ぼくにとって相当にインパ クトがあるものでした。《リトル・ダーリン》を耳にしていらい、ぼくはオールディーズ という言葉を聞いただけで、反射的にこの曲のイントロのファルセットが頭の中で鳴り響 くほどです。ぼくにとっては、デル・シャノンの《悲しき街角》、フォー・シーズンズの 《シェリー》と並ぶインパクト大の3大ファルセットなのです。そしてソマーヴィルは、 イントロが終わるとすぐにファルセットからテナーへと移り、おもむろに歌いだします。 この歌い方がまた凄い。和田アキコではありませんが、全ての言葉に「ハヒフヘホ」が混 ざったような歌い方なのです。このソマーヴィルのパフォーマンスがなければ、ロックン ローラーの歌い方はいまと少し違っていたのではないかと思わせるほどです。例えば「マ イ・ラヴァー」は「マハィ・ラヴァ」、「ダーリン」は「ダハァリン」という具合です。 そのものずばりの「ハ、フハフハフハフハ」というハ行だらけの部分も登場します。明る いコミカルな要素だけで突っ走るのかと思いきや、中間部では低い声で「マイ・ダーリン 、アイ・ニージュゥ」と渋いセリフで決めてきます。この部分は、《リトル・ダーリン》 をBGMに恋の告白しているような演出になっているのです。マイナー調に変わるコード 進行もセンチメンタルな気分を盛り立てます。ソマーヴィルの凄い歌と洒落た演出が印象 的な《リトル・ダーリン》は、言う事なしのティーン・エイジ・ポップの名作でしょう。