賛否両論の”ビートルズの最新作”『ラヴ』を聴いた。なぜ賛否両論なのかはインターネ ットを検索すれば容易にわかる。ここでは自分の考えを記しておきたい。賛否の”否”の 部分の理由で多いのが、ビートルズの音楽を解体して別の曲にくっつけるなどの再構築作 業に対してだ。例えばこのアルバムには、《ドライヴ・マイ・カー》に《ホワット・ユー ア・ドゥーィング》をくっつけたトラックが入っている。このような作業に対する”否” の声が多いのだ。ぼくは、この点は”否”ではない。そもそもが舞台用という用途を考え れば、そのような音楽の使い方もアリだと思う。音楽を舞台に使わせてほしいと打診され たビートルズ側が、先行していたアバやクィーンの音楽を使ったミュージカルとは異なる ビートルズならではのサプライズのある舞台音楽を創りたいと考えたとしても不思議はな い。そもそも本人達が許可しているのだから、他人がどーのこーのいう部分ではない。 しかしどうしても納得しがたいのは、そのようにして創った音楽を”ビートルズの最新作 ”として販売するレコード会社とアップル側の姿勢だ。なぜ、この音楽が”ビートルズの 最新作”になるのだろうか。「ジョージ&ジャイルズ・マーチン親子による、本物のビー トルズの音源を使ったシルク・ドゥ・ソレイユ『ラヴ』の舞台音楽」で良いではないか。 しかしレコード会社の広告では、そのようなことは”よく読まないと”わからないように なっている。これが姑息だ。ジョージ・マーティン自身が「(舞台音楽の作業の)結果と してビートルズの最新作を作り上げた」と語っている以上、「販売するのが私達のビジネ スです」というレコード会社の立場はまだ理解できなくもない。勝手に、「このアルバム は、ビートルズの音楽を使用したシルク・ドゥ・ソレイユの舞台音楽ですよ」というわけ にもいかないであろう。しかし制作者側のアップルの責任は重いのではないか。 制作者側は、このアルバムではじめてビートルズに触れる人たちがいるであろうというこ とを、忘れてはいないのだろうか。彼らは、ビートルズを長年に渡って聴いてきた人たち とは違う。ビートルズに興味を抱き始めたばかりのそのような人たちが、オリジナル・ア ルバムに手を出す前に”最新作”としてCDショップで大きく宣伝されている『ラヴ』に 手を出す確立は高い。問題はここからである。『ラヴ』に収録された各トラックの音源は 確かにビートルズのものではあっても、各トラックは”ビートルズの作品”ではない。い うまでもなく、作品としてのクォリティはオリジナルのほうがはるかに上である。ビジネ スとして、”売る”姿勢は理解できなくはない。しかしビジネスであればなおさらのこと 、あきらかに40年も前の作品よりもクォリティの低いものを売ってよいのか。一般企業な ら、そんなことはありえないぞ。公演会場での特別販売で十分だったのではないか。 また、何よりも悲しいのが、プロデューサーのジョージ&ジャイルズ・マーチンの視点が 「ビートルズは過去の遺物」であるかのような視点にたっていることである。いうまでも ないが、音楽だけを純粋に取り出せばビートルズの音楽は全く古くない。音楽雑誌の「オ ール・タイム・ベスト」や、いまもって多くのロック・バンドがリスペクトをしてやまな いという事実がそれを証明している。実際のところ、ビートルズの音楽が持っている創造 性を超える創造性を持った音楽を創り上げたバンドなんて、はっきり言って皆無ではない か。いまもって発見の多いビートルズの音楽に対して、もう過去のものであるというよう なあからさまな郷愁はなんなのだと言いたい。制作陣のアップル重役のポールやリンゴも 含めて、自ら自分達の生命力に溢れた革新的な音楽を葬り去ろうとしているようなもので はないか。『ラヴ』を聴いて、この点がなんとも悲しかった。 シルク・ドゥ・ソレイユの舞台を観た人ならば、このアルバムは観劇の思い出として多少 の価値があるのかもしれない。しかし、それ以外の人にはどうなのだろうか。確かに、収 録されている音楽はビートルズによるものである。本当にそれだけで、アップルのお墨付 きがあるからといって、ビートルズの作品としてよいのか。本物の演奏が入っているだけ で”ビートルズの作品”となるなら、駅のコンコースなどで売っている1枚千円のビート ルズのアルバムだって”ビートルズの作品”ではないか。誤解を恐れずに言えば、このア ルバムは、そのようなCDと大差ないのではないか。だから、ぼくは薦めない。このアル バムは、音楽として、ましてや”ビートルズの作品”として、繰り返し楽しめるアルバム ではない。本物のビートルズの音楽を使った舞台音楽をアルバム化しただけの、ジョージ &ジャイルズ・マーチン親子のアルバム。それが『ラヴ』だ。