1970年代半ばから1980年代の前半にかけて、ロック、ジャズ、ソウル、クラシックといっ たジャンルの大枠には属さない類の音楽が注目を集めた。注目されたのは、後にワールド ・ミュージックと一括りで呼ばれるようになった類の音楽である。記憶を頼りに、当時注 目されていた音楽の具体例をあげてみよう。例えば、ジミー・クリフやボブ・マーレーに 代表されるジャマイカのレゲエ。レゲエをベースにして、アシッド感たっぷりのミキシン グ操作を加えたデニス・ヴォーベルなどに代表されるダブ。ニューヨークのヤンキーズ・ スタジアムでの公演が話題になった、サルサのファニア・オールスターズ。ジャズ・フェ スティバル出演時のライヴが収録されたアルバムにみんながぶっとんだ、キューバ出身の イラケレ。そして我が国でも、沖縄から《ハイサイおじさん》の喜納昌吉。多少年代は前 後するが、これらの多様な音楽がいっせいに注目を集めたのである。 当時のぼくは、音楽を聴き始めたばかりの高校生だった。そのぼくが上記の人達のレコー ドを全て買っているのだから、音楽雑誌での注目度はけっこう高かったはずだ。この時期 は、ちょうどクロスオーヴァー(後のフュージョン)と呼ばれた音楽が大きな注目を集め た時期とシンクロしている。もともとフュージョン・ミュージックは、いろいろなジャン ルの音楽の要素を混合した音楽だが、既成のジャンルには属さない類の音楽がロック側と ジャズ側の双方から大きく注目されたのも、そのような”フュージョンの時代”の気分を 反映する部分もあったのであろう。レゲエやサルサといった音楽に、音楽を聴く側も、演 奏するミュージシャン側も、より多くの未知なる音楽的な刺激を求めていたのだ。ぼくも また例外ではないのだが、そんな時代の中で出会ったのが、主にジャズ側から大きな注目 を集めていたブラジル出身のミルトン・ナシメントの音楽であった。 ミルトンが世界的に有名になったのは、当時の人気フュージョン・グループの一つだった ウェザー・リポートのサックス奏者ウェイン・ショーターのソロ・アルバム『ネイティヴ ・ダンサー』によるものだそうだ。でも当時のぼくは、そんな情報は知らない。『ネイテ ィヴ・ダンサー』も、まだ聴いたことがなかった。記憶は定かでないが、おそらく雑誌で 紹介されていたミルトンの名前が、頭のどこかに残っていたのであろう。たまたま輸入レ コード・ショップで手にとったアルバムが、カーペンターズで有名なA&Mレーベルから 出ていたミルトンの『ミルトン』というアルバムだった。30cm四方のLPジャケットいっ ぱいに写っている汗だくのミルトンの顔のインパクトに、「なんかすごそうだぞ」と未知 なる音楽の気配を感じて思わず買ってしまったのである。俗にいう”ジャケ買い”という ヤツだ。このアルバムが、ぼくとミルトンの音楽との出会いなのである。 買った当時は、ミルトンがどのような音楽をやっているのかは全く知らなかった。しかし 1曲目からある意味では予想していたとおり、ある意味では全く予想できなかった音楽が スピーカーから飛び出してきた。つまり、予想通り”聴いたこともないような凄い音楽” が聴こえてきて、かつその音楽は”全くそれまでに聴いたことがないような、予想もでき ない展開をみせる音楽”でもあったのだ。アルバムは、ロックでもジャズでもない複雑な リズム・パターンを持つ快活な《レース》に始る。それまでの自分が知らなかった音楽が 出てきて、ぼくの耳はスピーカーに釘付けになった。パーカッション、アコースティック ・ギター、エレクトリック・ベースが中心の音作りを、非常に斬新に感じたものだ。この 1曲目の《レース》から、アナログ盤A面の5曲目にあたる《クローヴ・アンド・シナモ ン》までの展開に、未知の音楽を求めていた当時のぼくの心はおおいに満たされたのだ。 《フェアリー・テール・ソング》や《ナッシング・ウィル・ビー・アズ・イト・ワズ》で は、ウェイン・ショーターのソプラノ・サックスが聴ける。ショーターのプレイは楽曲と の見事な相乗効果を生んで、曲に宇宙的な拡がりをもたらしている。このショーターのプ レイや、ミルトンの代表曲《クローヴ・アンド・シナモン》におけるハービー・ハンコッ クによるカッコいいピアノ・ソロを聴くと、ミルトンの音楽がジャズ・ミュージシャンに とって新しい音楽を生み出す格好の素材であったことがわかる。しかしぼくにとってもっ とも刺激的だったのは、美しい《フランシスコ》だった。この素朴なチャントを聴くと、 大自然の中に連れ出されるような不思議な感覚になったものだ。ブラジル音楽はサンバと ボザノヴァしか知らなかったが、それ以外のコンテンポラリーな感覚を持つ新しいブラジ ル音楽が存在することを、このミルトンのアルバムでぼくは初めて知ったのである。