楽器を自分で弾く人というのは、概ね自分の弾いている楽器と同じ楽器を奏でるプレイヤ ーの演奏をよく聴いている。例えばギター、ベース、キーボード、ドラムスといったバン ドがあったとする。このバンドの音楽を楽器を弾く人に聴いてもらったとすると、殆どの 場合はギターを弾く人はギタリストの演奏に、ドラムスを叩く人はドラムスの演奏に注目 して聴いている。ぼくも自分で楽器を弾くが、ぼくにはこのような聴き方ができない。楽 器を弾く友人と会話をすると、「この演奏のこの部分の**のプレイが凄いんだよ」とい った言葉をよく聞く。この友人達のように、楽器を自分で弾く人は同じ楽器を弾くプレイ ヤーの演奏に感動して、自分もこのように弾いてみたいと思う一心でコピーをして、次第 に楽器が上達していくのであろう。それはそれで、十分理解できる。しかし僕の場合は、 そのようにして聴いた音楽というのは、あまり心に残らないのだ。 そもそも特定の楽器に着目して聴いても、どうしてもサウンドの総体として耳に入ってく るのである。例えばギター・ソロの部分を聴いていても、バックの演奏も含めた音色や音 圧と、演奏全体のカラーのような総体的なものとして音楽が入ってくるのである。上手く 言えないのだが、マイルス・デイヴィスが昔インタビューで似たようなことを言っていた ことがあった。70年代のエレクトリック・バンド時代のマイルスであるが、バンド・メン バーがそれぞれどのような演奏をしているかステージの上で独立して聴こえるというよう な発言だったと記憶している。つまりマイルスの耳には、誰かバンドメンバーがソロを行 っているときでも、他のメンバーがその後ろでどのような演奏をしているのかが”ソロイ ストの演奏と同様のレベルで”聴こえているのだと思ったのである。マイルスを引き合い に出すのもおこがましいのだが、これで意図するところは伝わるだろうか。 これから紹介するアルバムをプロデュースしたクリード・テイラーという人も、同様の感 覚を持っている人のように思える。アルバムは、ギタリストのジョージ・ベンソンの『ビ ヨンド・ザ・ブルー・ホライズン(邦題:青い地平線)』。ジョージ・ベンソンは、70年 代後半の《マスカレード》の大ヒットで単なるジャズ・ギタリストを超えた存在になって しまったが、ソウルフルでテクニカルなジャズ・ギタリストという側面を持ったミュージ シャンである。しかしクリード・テイラーは、ある意味でベンソンのテクニックを制限す ることでサウンドの質感そのものをプロデュースしている。もちろんギターを弾く人がこ のアルバムを聴いた場合に、ベンソンのテクニカルなギターに耳を奪われるような部分も 残してはある。しかしぼくには、どうしてもアルバム全体のサウンドの質感のほうが、強 く伝わってくるのだ。 クリード・テイラーが自分の会社CTIの作品としてプロデュースした作品には、この質 感を持つ作品が多く見受けられる。どのプレイヤーの演奏にも、プレイヤーが本来持って いる個性にベールをかけるような感じで、最終的にクリード・テイラーのサウンドになる 魔法がかかっているのである。この質感が、実はぼくにはたまらない。言葉で表すのは難 しいが、敢えて言うならば”早朝の人影のない街に漂う、朝靄のようなサウンド”とでも 言おうか。カラカラに明るい音でも、ブルーノート(エンジニアは同じルディ・ヴァン・ ゲルダーなのに)のようないかにもジャズといった音でもない。このサウンドの質感に身 を浸らせたくて、ついついこのアルバムを手にとってしまうのである。したがってぼくが 聴くのは、ジャズ・ギタリストとしてのベンソンをフィーチャーしたマイルス・デイヴィ ス作の《ソー・ホワット》ではない。2曲目から4曲目なのである。 ルイス・ボンファのボサノヴァをジャズ・ロック風に料理した《ジェントル・レイン》、 ソウル風の《オール・クリアー》、そして《オード・トゥ・クドゥ》である。どの曲も、 クリード・テイラーならではのサウンドの質感を持っている。聴くべき、楽しむべきは、 ベンソンのギターでもディジョネットのドラムスでもなくこの質感なのだ。演奏面でこの 質感作りに一役かっているのは、ベースのロン・カーターの飛び道具のピッコロ・ベース である。慣れるまではキリキリ、キリキリこうるさいハエが飛び交っているみたいだが、 慣れてくるとサウンドにしっかり溶け込んで、これが無いと物足りないくらいの存在とな るのである。したがってぼくがこのアルバムを聴いて”凄い”と思うのは、主役であるベ ンソンのギターではなくこのサウンドの質感であり、それをプロデュースしたクリード・ テイラーの才能なのである。