いよいよ始まりました、ロックへの旅。今回は記念すべき第一回目です。その第一回目の 曲として、エルヴィス・プレスリーの《ザッツ・オール・ライト》を取り上げてみたいと 思います。アメリカのロック雑誌「ローリング・ストーン」は、この曲がレコーディング された1954年を”ロック誕生の年”としています。しかし前回のイントロダクションでふ れたように、エルヴィスの登場以前にもロックンロールという言葉は存在していました。 言葉だけではなく、実は”曲そのもの”もありました。例えば、エルヴィスの代表曲の1 つの《ハウンド・ドッグ》。この曲が最初にヒットしたのは1953年。歌ったのは、ビッグ ・ママ・ソーントンという”女性”歌手です。「あれ?、ロック誕生の年より1年も前じ ゃない!」。そう思っても、不思議ではありません。まずは、なぜエルヴィスの初レコー ディングが”ロック誕生”とされるのか。このあたりから、考えていきましょう。 はじめに、1954年当時の音楽状況を調べてみましょう。多人種国家である当時のアメリカ は、白人専門の音楽を流すラジオ局と黒人専門の音楽を流すラジオ局が存在していたそう です。白人用のラジオで人気があったのは、ヒルビリー・ミュージック(現在のカントリ ー)やモダン・フォーク。黒人用のラジオでは、ジャズから派生したジャンプ・ブルース のリズムをより強調したR&Bが人気だったそうです。前述したようにロックンロールの 代表曲の一つ《ハウンド・ドッグ》も既に存在していましたが、それはあくまで黒人が聴 く閉じられた世界の音楽でした。しかし次第に黒人専門とされた音楽の魅力に、白人の若 者達が気づき始めます。貧しい環境にあった当時のエルヴィスも、そのような少年の1人 だったのでしょう。同じ白人から差別を受けるほど貧しかったというエルヴィスは、鬱屈 した感情を黒人用のラジオを聴くことで癒していたのだとと思われます。 そのような立場だったエルヴィスが、黒人音楽に惹かれていったことは想像に難くありま せん。高校時代のエルヴィスは「ブラック・ラヴァー」と呼ばれていたくらいに黒人風フ ァッションに身を固めていたそうです。エルヴィスの自己表現は、まずファッションとな って現れた。それがやがて、人前で歌うということへ繋がっていったのでしょう。エルヴ ィスは、様々な”歌える場”に自ら出かけて行きます。そして終に、地元でアマチュア録 音を手がけていたサン・レコードを訪問するのです。しかしエルヴィスが歌ったのは、静 かなバラードでした。なぜR&Bを歌わなかったのか。興味深い事実があります。エルヴ ィスは、1953年に出演したタレント・ショーで、曲をR&B調にして歌いブーイングを受 けたそうです。この事実が、エルヴィスにR&B調の歌を人前で歌うことをためらわせた のではないかと考えられるのです。 その証拠に、エルヴィスがサンで自主制作したレコードで選んだ曲は、一般受けしやすい バラードでした。その後のテスト・レコーディングでも、その姿勢は変わっていません。 おそらくエルヴィスは、本当の自分を試す自信がなかった。”その日”も最初に歌ったの は、《ハーバー・ライト》のようなバラードでした。しかしどうもノリがいま一つ。スコ ッティ・ムーアのギターが、そのもどかしさを今に伝えます。盛り上がらぬ録音に、プロ デューサーのサムが休憩をとることにしたのでしょう。しかし休憩中に、録音用に練習を 重ねてきたエルヴィスとスコッティとベーシストのビル・ブラックは、エルヴィスの大好 きなR&Bでふざけはじめたそうです。これは事実だと思います。気心の知れたものどう しの開放感が、エルヴィスに本当に歌いたかった”黒人用の音楽”を歌う気にさせたので はないでしょうか。”ザッツ・オーライ、マァマ”。バンドはあきらかにノっています。 エルヴィスは、黒人のアーサー・クルーダップが歌った《ザッツ・オール・ライト》を見 事に歌いこなしました。そのノリに、”何かをつかめそう”と皆が感じたのでしょう。今 度はビルが、ブルーグラス歌手ビル・モンローの《ブルームーン・オブ・ケンタッキー》 を歌いだしたそうです。エルヴィスがそれを引き継ぎ、”白人のビル・モンローの曲を黒 人のように”歌いました。”黒人のように歌える白人”がいれば一儲けできると考えてい たプロデューサーのサムに閃きが走ったのはこの時でしょう。今日では、《ザッツ・オー ル・ライト》よりも《ブルームーン〜》のほうが聴くべき部分が多いように思います。《 ブルームーン〜》には、ロックンロールのフィーリングを携えたエルヴィスの歌唱の特徴 が早くも出ています。それは、確かにそれまでに存在しなかったものでした。”ロックの 誕生”というよりも、”ロックンロールのキング”と呼ばれたエルヴィスの誕生でした。