●ブライアン・ウィルソンとスマイル(その4)

1966年夏以降、ブライアン・ウィルソンは名盤『ペット・サウンズ』に続くビーチ・ボー
イズのアルバム『スマイル』の制作にとりかかっていた。ビートルズは、ジョン・レノン
の”キリスト発言”でアメリカで物議をかもし、8月29日のキャンドル・スティック・パー
クのコンサートを最後にライヴ活動を停止した。アメリカではビートルズと入れ替わるよ
うな形で、アイドル・バンドのモンキーズがTVから登場した。ヒット・チャートでは、
ホランド、ドジャー、ホランドのモータウン制作チームによるスプリームスやフォア・ト
ップスの楽曲が大ヒットを飛ばしていた。イギリスでは、斬新な即興演奏を得意とするエ
リック・クラプトンらのクリームがデビューし、アメリカから来たジミ・ヘンドリックス
が新しいバンドのエクスペリエンスを結成した。音楽の世界は”ヒップな”方向に向かお
うとしていた。
ビーチ・ボーイズも、ブライアンの創造性とポップな魅力が融合した曲《グッド・ヴァイ
ブレーション》で3枚目となる全米No.1の座を獲得していた。多くの評論家を黙らせるだ
けの力を持った。素晴らしい出来映えのシングルであった。ポップであると同時に”ヒッ
プな”時代性もうまく捉えていた。この時期のブライアンの創造性は衰えていなかった。
おそらくは。しかしブライアンの周りの環境は、次第に変わっていったようだ。ブライア
ン以外のビーチ・ボーイズのメンバーは、ライヴにおける自分達のイメージ(海と車と女
の子)の中にいた。自分達のイメージと異なる名盤『ペット・サウンズ』の音楽にもけち
をつけ、《グッド・ヴァイブレーション》にさえ、「世界的な大ヒットになるか、自分達
が消えるかどっちか(ブルース・ジョンストンの言葉)」という認識であった。クリエイ
ティヴな環境になかった人々には、ブライアンの新しい音楽が理解できなかったのだ。兄
弟や親戚、友人で成り立っているビーチ・ボーイズのメンバーから反発をくったブライア
ンは、それに対抗するだけの強靭な精神力の持ち主ではなかった。ビーチ・ボーイズのメ
ンバーとブライアンとの間には、次第に溝が形成されていった。
『ペット・サウンズ』は大ヒットには至らなかったが、当時のクリエイティヴな環境にい
た人々の関心を集めた。ブライアン自身も、”自分の音楽を理解してくれないメンバー”
よりも、クリエイティヴでヒップな人達との関わりを望んだようだ。その中には、『スマ
イル』で多くの曲の作詞を担当することになるヴァン・ダイク・パークスもいた。そして
このような環境が形成されると同時に、ドラッグがブライアンの生活に深く入り込んでい
った。そこにはマリファナのようなソフト・ドラッグだけではなく、当時作られたばかり
の新しくてハードなドラッグ「LSD」が含まれていた。これらのドラッグは、ブライア
ンの感情をよりエキセントリックな方向へと導いてしまったような気がする。
このような当時のブライアンの周囲の環境が、ブライアンの創造性を蝕んでいったのは事
実であろう。だが実際に大きな変化をもたらす要因となったものは、むしろメンバーから
の反発やレコード会社からの精神的なプレッシャーによるもののほうが大きかったのでは
ないか。『スマイル』の制作初期にブライアンによって録音されたバッキング・トラック
の多くを聴くと、ブライアンの創造性は十分に感じられる。しかし”何か”が、楽曲の中
に大きな影を落としている。『ペット・サウンズ』までの曲ににあった”明るさ”が無く
なり、光りを放ってはいるがとても硬質な原石のような印象を抱かせる曲が多くなるので
ある。ブライアンの心の中で、明らかに変化がおきていた証拠だ。
他のビーチ・ボーイズのメンバーは、ブライアンが精力的にスタジオで仕事をしている間
ツアーに出ていた。観客を前に、《アイ・ゲット・アラウンド》や《ファン・ファン・フ
ァン》といったブライアンが過去に作ったヒット曲を演奏し続けていたはずだ。もしかす
ると《モンスター・マッシュ》もまだやっていたかもしれない。ツアーから帰ってきたビ
ーチ・ボーイズが聴いたのは、ブライアンが”ビーチ・ボーイズのために”作った斬新な
バッキング・トラックだった。《グッド・ヴァイブレーション》にさえ異を唱えた他のメ
ンバーが、どのような反応を示したのかは想像に難くない。『スマイル』の収録予定曲の
中で、ロックン・ロールのライヴ・ショーに向いた曲は殆どなかった。それはブライアン
によると、”神に捧げるティーン・エイジ・シンフォニー”であった。ツアーで毎日観客
を相手にショー・アップを行っていたマイク・ラヴが噛み付くのも無理はない。マイクに
限らず、ビーチ・ボーイズのメンバー全員がブライアンが新しく作った音楽に困惑したの
だろう(デニスだけは、後の作品《リトル・バード》などに影響が聴かれるとおり例外か
もしれない)。ビーチ・ボーイズのメンバー以外の周囲にいた”クリエイティヴ”な人達
にも、どれだけ正当に評価されたのかわからない。そのような状況のなかで終に諍いが発
生し、作詞を担当していたヴァン・ダイクは制作途中で『スマイル』から離れていった。
しかしアルバム制作を進めないわけにはいかない。この誰もが理解していたであろう理由
により、とにもかくにもビーチ・ボーイズはスタジオに入り、ヴォーカル・パートの録音
を開始する。しかしスタジオの空気は、陰鬱なものへと変わっていたのではないか。舵取
りをすべきブライアンは、メンバーとの軋轢の中で次第に方向性を見失っていった。『ス
マイル』用に残されたいくつかの曲がバッキング・トラックしか残されていないのは、そ
れ以上その曲の制作を進めることができなかったことを物語っている。こうして音楽は、
未完成の原石のまま放置されたのだ。
ブライアン・ウィルソンのニュー・アルバム『スマイル』は、大別すると3つのパートで
構成されていることは前回に述べた。その2つめパートは、《ワンダフル》に始り、ブラ
イアンとヴァン・ダイクの作った最高傑作の《サーフズ・アップ》で終わる。《サーフズ
・アップ》は、ブライアンの楽曲とヴァン・ダイクの歌詞がこれ以上無い形で融合された
傑作だ。『スマイル』用に録音された音源では、ブライアン自身のピアノ弾き語りによる
ものと、曲の前半部分のバッキング・トラックが聴ける(これらは公式音源として、ビー
チ・ボーイズのボックス・セットにも収録されている)。ビーチ・ボーイズは、”セール
ス上の見地から”『スマイル』用の録音を流用して《サーフズ・アップ》を完成させ、同
名アルバムに収録した。ブライアンによる近年のライヴ・パフォーマンスも、このヴァー
ジョンを下敷きにしている。しかしこれらのヴァージョンの全てにおいて言えるのだが、
ブライアンが本来描いていた《サーフズ・アップ》とは、どのヴァージョンも異なるので
はないのかという気がするのである。『スマイル』用に録音された音源のうち、ブライア
ンによるピアノ弾き語りヴァージョンはおそらく曲全体をとらえたものだ。しかしこれは
、デモに近いヴァージョンであろう。このヴァージョンをもとに、ブライアンはまず曲の
前半部分のバッキング・トラック(グロッケン、ギター、ホーン・セクションの使い方の
斬新なこと)を作った。ビーチ・ボーイズによる正規ヴァージョンは、これらのヴァージ
ョンをつなぎ合わせて、新たに楽器やコーラスをダビングして完成させたものだ。本格的
な料理を作ろうとしていたシェフが倒れてしまったので、ありあわせの材料で変わりのシ
ェフが料理を作るようなものだ。近いものはできても、本来料理すべき人が考えていた工
夫までは、予め知らなければ再現することができないはずだ。何かが抜け落ちている。曲
の後半部分は、本来はどのようになるはずだったのだろうか。それはもうブライアン自身
でさえ、預かり知らぬ場所にいってしまったのではないか。そのような気がしてならない
のである。それでも《サーフズ・アップ》という曲が傑作であることには変わらない。あ
らゆる観念や絶対支配の崩壊、退廃・デカダンス・死の臭い。”海と車と女の子”の世界
の対極にあるような、もう一つのアメリカがそこに存在している。しかし楽曲は光り輝く
原石のように美しい。他のどのようなポップスにも存在しない美が内包されている。そし
て最後には、希望へと続く歌詞で終わっていくのだ。《サーフズ・アップ》は、ブライア
ンのニュー・アルバムの『スマイル』で聴けるヴァージョンではどのようになっているの
だろう。怖いもの見たさではあるが、興味の種はつきない。