キース・ジャレットというミュージシャンに興味を持ったのは、確か樹村みのりという人 の書いた漫画だった。その漫画の主人公は小学五年生の女の子。その女の子が自分を理解 してくれない家族に腹を立てて家を飛び出し、一晩限りの大人の世界への冒険を行うとい うようなストーリーだったと記憶している。その冒険の中で、少女は同年代の不良少年と その少年が連れている”おしゃべりをする”ネコと出会う。一緒に東京の新宿に着いた少 女と少年とネコが、最初に立ち寄るのがジャズ喫茶。確か実際にあったポニーという店が モデルだったはずだ。そのお店でかかっていたのが、キース・ジャレットのピアノなので ある。そしてその”おしゃべりをする”ネコが、コーヒーを飲みながらこう言うのだ。 「人類の生み出したもので素晴らしいものは、コーヒーとキースのピアノだけだにゃぁ」 うろ覚えなので実際のセリフとは異なっているかもしれないが、ニュアンスは上記のとお りである。このセリフに、ジャズという音楽に興味が出てきたばかりの中学生だった当時 の僕はしびれた。早速レコード店にいって購入したのが、発売されたばかりのキースの新 作『マイ・ソング』である。このアルバムが、僕のキース初体験だ。 『マイ・ソング』は、俗に言われるところのヨーロピアン・カルテットのアルバムだ。キ ース・ジャレットというミュージシャンの音楽表現は幅広く、このヨーロピアン・カルテ ットの他にもいろいろとある。従ってどの”フォーマット”のキースの音楽に最初に触れ るかによってキースへの感じ方も異なってくる可能性が大きい。僕の場合は、この『マイ ・ソング』で良かったと思っている。キースの傑作は、キースがリコーダーやソプラノ・ サックスまで演奏して作り上げたアメリカン・カルテットによる『残氓』だと思っている が、今でも愛聴盤は『マイ・ソング』だ。アメリカン・カルテットのスケールの大きな音 楽美を構築するような作品と異なり、『マイ・ソング』はキースの本質であるメロディア スな調べを持つオリジナルがたっぷり入った名盤である。タイトル曲の《マイ・ソング》 をはじめとするそれらのオリジナル曲は、ブルージーな黒人のジャズから聴きはじめてい た僕にとって新鮮な響きに満ちていた。”ジャズ=フォー・ビート”のようなイメージと も全く異なる音楽だった。ヤン・ガルバレクの、眼の覚めるような晴れやかなサックスの 音色も心地良い。このガルバレクのサックスがしっかりとしたメロディを吹奏しているの で、ジャズを聴きはじめたばかりの僕にとっても非常にわかりやすい音楽だったのだ。オ ーネット・コールマンの影響を感じさせる《マンダラ》というフリーっぽい曲も入ってい るが、他の曲はいずれもフォーク調の印象深いメロディを持っていたのでわかりやすかっ たのだろう。またジャズの生命線のように思われていた即興演奏部分が少ないことも、わ かりやすさの一要因となっていた。この『マイ・ソング』から伝わってくるのは、メロデ ィそのものである。そしてどの曲でもメロディに寄り添うように弾かれているキースのピ アノは、グループをリードしながらずっとソロをやっているようなものだ。メロディその ものとメロディに対比させていくようなその表現方法は、やがて大きな成功を生む”スタ ンダーズ”というキースの音楽フォーマットへの布石へとなっていった。しかし『マイ・ ソング』が今でも大好きなのは、音楽が本当に素晴らしいからである。なかでも《マイ・ ソング》と《カントリー》。《マイ・ソング》の中間部分でキースのピアノだけとなる部 分は、キースがいかにメロディを大事にしているかが伝わってくる。《カントリー》は、 ベース・ソロが終わった後に入ってくる曲のメロディよりもメロディアスとも言えるキー スのソロがたまらない。確かに人類の生み出したもので素晴らしいものの中に、キースの 弾くピアノの調べは入るようである。