●エレクトリック・マイルスとの出会い

音楽を聴き始めた当初というのは、手当たり次第に聴いてみる時期というのが誰にでもあ
ると思う。その時に参考になる情報源というのはいろいろとあると思うが、僕の場合は次
の順番だった。

@雑誌
A音楽好きな友人の紹介
Bラジオ

僕が音楽に興味を持ち始めた1970年代後半という時期は、TVで洋楽の紹介を行うことは
まれであった。唯一NHKが「ヤング・ミュージック・ショー」という形で、海外のロッ
クのライヴを月に1回程度放送していた(ジミ・ヘン、ストーンズ、イエスなどのショー
は、今も鮮明に記憶に残っている)。インターネットも当然無い。従って雑誌が一番の情
報源となるのだが、当時の雑誌(今でも大差ないのかもしれないが)は次のようなティピ
カルな表現が多かった。”ギターの天才、ジミ・ヘンドリックス”、”ジャズの巨人、ジ
ョン・コルトレーン”、”ジャズの帝王、マイルス・デイヴィス”といったものだ。それ
でも当時は、”ふむふむ、そうなのか”と素直に雑誌を頼りにレコードを買っていたので
ある。
マイルス・デイヴィスのレコードを買う前にも、何枚かジャズのレコードは買っていた。
友人のギタリストと僕のベースで、ジャズらしきものを演奏し始めた時期だったので、ジ
ム・ホールやジョー・パスといった人のレコードが多かった。マイルスで最初に買ったレ
コードは、『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』だったと思う。タレントのタモリが雑誌
で、”私の愛聴盤”としてあげていたからだ。ハービー・ハンコックの複雑なコードと、
緩急自在なリズムに、”ジム・ホール達の演奏とだいぶ違うなぁー”と思って聴いたもの
である。そうこうするうちに吹奏楽部でトランペットを吹いていた同級生と友達になり、
彼の家で『ビッチェズ・ブリュー』に遭遇することになるのだ。A面1曲目の《ファラオ
ズ・ダンス》の妖しいエレクトリック・ピアノの音、”ジャズ=スィングする4ビート”
という概念を覆すリズム。”なんだ、これは!!!”という思いが、頭をグルグル駆け巡
る。そして裏をひっくり返して、タイトル曲の《ビッチェズ・ブリュー》。重々しく始る
ペダル音に乗せて、マイルスのディレイ処理されたトランペットが部屋を満たした。不気
味なジャケットのイメージと重なり、空を駆け上っていくようなその演奏に、僕の心は完
全にノックアウトされた。その日から、エレクトリック・マイルス漬けだ。現在は、歴史
の空白を埋めるボックスものやブートレッグによってエレクトリック・マイルスの全貌が
明らかにされようとしているが、当時は正規盤が全てだったのだ。『アット・フィルモア
』(チック・コリアとキース・ジャレットの物凄い演奏と、ライヴで迫力の増した《ビッ
チェズ・ブリュー》が出てくる瞬間が堪らない!!)と『ゲット・アップ・ウィズ・イッ
ト』(美しい《マイシャ》と、ギョエーンの《レイテッドX》がこれまた堪らない!!)
の2枚は、僕のバイブルとなった。言い切ってしまうが、昨今持ち上げられている『オン
・ザ・コーナー』よりも、僕はこの2枚の音楽のほうが凄いと思う。そしてこの2枚の音
楽から、マイルスが雑誌が押し付けるキャッチ・コピーから遥か遠くにある音楽をやって
いることが僕には感覚的に理解できた。その日から、音楽をジャンルで捉えることはやめ
た。この時期のマイルスを褒めている文章は当時はあまり無かった(音楽評論家の清水俊
彦氏が”カイエ”という雑誌に書いたものと、植草甚一氏のものくらいか)で、1990年代
になって我が師である中山康樹さんが名著『マイルスを聴け!』と『ビッチェズ・ブリュ
ー・エレクトリック・マイルスのすべて』が出た時は、”そうそう、そのとおりなんだよ
なぁー”と感激しながら何回も読み耽ったものだ。引退時期のジョー・ベック参加の『サ
ークル・イン・ザ・ラウンド』と『ディレクションズ』の発売、復帰直前のラリー・コリ
エルや菊地雅章参加のスタジオ・ショット、渡辺香津美のライヴに現れたときの写真、そ
していよいよ復帰、高田馬場イントロで茂串マスターが持ち帰ったばかりのテープを聴か
せてもらったエヴリー・フィッシャー・ホールの演奏、開門と同時にダッシュして最前列
のど真ん中でみた新宿の来日公演(寒かったなぁー)。あんなにワクワク・ドキドキする
ことは、もう無いのかも知れないなぁーなどと思いつつ、今日もジャック・ジョンソン・
ボックスを聴いてしまうのでした。