●オスカー・ピーターソンの不憫な名盤『ウィー・ゲット・リクエスト』

オスカー・ピーターソンは、ジャズを演奏するピアニストである。そのピーターソンが、
自分を含めたピアノ・トリオ編成(ベースはレイ・ブラウン、ドラムスはエド・シグペン
)で吹き込んだ人気アルバムが1964年のアルバム『ウィー・ゲット・リクエスト(邦
題:プリーズ・リクエスト』である。このアルバム、名盤と言われている割には、昨今あ
まり褒められることがない。少し不憫なのである。ピーターソンという人は、僕が初めて
買ったジャズのレコード(この”ザ・トリオ”のレイ・ブラウンのリーダーアルバム)で
ピアノを弾いていた人なのだ。それに高校の音楽の時間で、音楽担当の先生がいろいろな
ジャンルのレコードを授業でかけてくれたのだが、”ジャズ”として聴かせてくれたのが
このピーターソンの”ザ・トリオ”が演奏する《A列車で行こう》だったのである。だか
ら、ピーターソンという人には少々思い入れが深いのである。
しかし昨今のジャズ界では、このアルバムが”名盤”ではあることは認めながらも、褒め
ている文章はあまり無いという、誠に歯切れの悪い評価なのだ。なぜそのような評価とな
るのかを考えてみたが、概ね次のようなことだと思う。まず日本のジャズ・ファンが好む
、ジャズ喫茶の人気曲となるようなマイナー・チューンが入っていない。マイナー・チュ
ーンとしてはジョビンの《コルコヴァード》が入っているが、ボサノバでありジャズ・フ
ァンが好むようなマイナー・チューンとは異なる。取り上げられた曲が《酒とバラの日々
》やミュージカル・ナンバーの《ピープル》など解り易い曲であるという点も、ポピュラ
ーなどの解り易い曲をを軽くみる傾向がありがちのジャズ・ファンから一段低い評価を受
ける要因の一つだと思う。さらに肝腎のピーターソンの演奏が、ジャズ・ファン好みのブ
ルージーで翳りのあるものではない。このアルバムでもMJQのジョン・ルイスが作った
《D&E》というブルースを演奏しているが、ピーターソンの演奏はブルージーというよ
りもメロディアスで品格すら漂っている演奏なのである。マル・ウォルドロンやソニー・
クラークを好む、日本のジャズ・ファン好みの演奏とはあきらかに異なる。そして一番強
く感じる要因は、このアルバムの音楽が聴き手の環境を限定してしまうようなものだから
だろう。このアルバムに収められた音楽は、ナイト・ラウンジやクラブなどで、お酒を片
手にゆっくりと楽しみながら聴きたいと思わせるような音楽なのだ。日本のジャズ喫茶の
ような空間とか、ジャズ・ファンの自宅の部屋などには合わない音楽なのである。”大人
”の音楽と言い換えても良い。気持ち的なものも含めて、若いときというのは往々にして
熱狂的で熱くなれる音楽を求めるものである。このアルバムの音楽は、そのような音楽で
はないのだ。逆に言うとこの点は、このアルバムの音楽が持つ弱点でもある。音楽に、(
日本人の)聴き手の環境を変えるだけの力が無いとも言える。しかしアルバムのもともと
の主旨が、当時のアメリカで不況だったナイトクラブなどで聴きたいような演奏をパッケ
ージしたアルバムを作ることだったので、ある意味しょうがない。アメリカ人の家の広い
リヴィングをナイト・ラウンジにできても、日本人の六畳一間のアパートまでナイト・ラ
ウンジには流石にできないだろう。ピーターソンがそこまで考えて演奏していなくても、
無理はない。以上のような要因が、このアルバムの評価を歯切れの悪いものにしているの
だと言えよう。
しかしこのアルバムの演奏は、それはもう見事な名演奏だ。なかでもスタンダード曲の《
マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ》は、この曲の数多い名演のなかでも5本の指に入
る名演であると思っている(残念ながら、11月14日に宝島社から発売予定の曲単位の名演
を紹介するジャズ・ムック「ジャズ”名曲”入門」では、この演奏は入らなかった)。ピ
ーターソンの”キャロキャロ、コロコロ”と転がるような、流麗でメロディアスなピアノ
が堪らない。クラシックを勉強してきたピーターソンらしく、エンディングではバッハの
曲(”主よ人の望みの喜びよ”)を引用しているのが楽しい。ベーシストのレイ・ブラウ
ンの紹介で取り上げたという《ユー・ルック・グッド・トゥ・ミー》も、クラシカルなア
レンジと後半になってグイグイ盛り上がっていくところが心地良い名演だ。ピーターソン
の演奏というのは、レコーディングという時間的な制約もあるのだろうが、気持ちの趣く
ままに長々と即興演奏を続けるといったタイプのものではない。あきらかに、曲全体の構
成をトリオの全員がきちんと把握して演奏を行っている。凡百のピアノ・トリオと異なる
のは、その演奏の密度が物凄く高いレベルにあることだ。個々のメンバーの演奏力による
ものだが、これはもの凄いことである。特に一糸乱れぬリズム感は凄い。それでいてテク
ニカルな面を見せつけるでもなく、リラックスして楽しめる演奏にできるところが、この
ピアノ・トリオが”ザ・トリオ”と言われる所以であろう。
最後の曲は、このアルバムがピーターソンとのヴァーヴ・レーベルでの最後の仕事となっ
たプロデューサーのジム・デイビスに贈ったといわれるピーターソンのオリジナル曲であ
る。ピーターソンの早弾きテクニックが物凄い。この曲だけ、他の曲をレコーディングし
た1ヶ月後にレコーディングしている。曲のタイトルは、《グッバイ、J.D》。これま
でのアルバムと同じように、このアルバムの企画もジムとピーターソンの二人で考えたそ
うだが、そんな長年に渡って自分を支えてくれたプロデューサーに対して自作曲で贈るこ
とで応えるというのはなかなか良い話である。しかもそれが感傷的な曲ではなく、”ザ・
トリオ”の真髄を見せるようなテクニカルな曲というのが良い。スタンダードやポピュラ
ーなどの他の曲に隠れて目立たないが、このアルバム最後の曲も名演なのである。