●NIAGARA CALENDRER/大滝詠一

前回に引き続き大滝詠一である。つまり、ハマリ・モードに突入しているという訳だ。
現在(2003年5月)レコード店では最新シングルの《恋するふたり》のプロモーションで、
大滝詠一の旧譜が大々的にキャンペーン対象となっている。そのような事象や、前回に少
し書いたこともあって、名曲《Blue Valentine Day》が含まれているアルバム『NIAGARA 
CALENDRER』を買ってきた。発売されたときは、”78”が付いていたが、現在出ているC
Dはジャケットも一新されてタイトルも単なる『NIAGARA CALENDRER』となっている。こ
のアルバムは、そのタイトルどおりに1月から12月までをテーマにした曲がそれぞれ各月
1曲づつ含まれている。その中の2月に該当する曲が、《Blue Valentine Day》という曲
である。この曲を聴いたのは、このアルバムが発売された直後の1978年頃の深夜放送だっ
たと思うが(たぶん2月だったのでは)、やはり名曲だ。
当時の日本のチャートなんていうのはニューミュージック全盛時代で、ユーミンの第一次
ブームの真最中。アイドルはといえばピンク・レディがこれまた子供まで巻き込む一大ブ
ーム。そんな状況の中で、大滝詠一のこのアルバムが話題になったという記憶は殆ど無い。
それでも《Blue Valentine Day》は、”他には聴いたことのない香り”のようなものを確
実に持っていた。一言でいえば、ソフィスティケートされた音楽とでも言おうか。それが
当時まだ中学生だった僕の心を打ったのだ。それでもアルバムを買うところまでいかなか
ったのは、その当時の僕の心を占有していた音楽が別のもの(クロスオーバーやジャズ)
だったせいである。それから今日まで、このアルバムは聴かずに過ごしてきたわけである。
一聴してみて、最初は各曲に散りばめられた音楽的な工夫を笑いながら楽しんでいたのだ
が、最終曲の《クリスマス音頭》でその笑いは凍りついた。なぜなら、僕ら日本人のやっ
ている全ての洋楽(ロック、ジャズ、その他なんでも良いのだけれど)は”このようなも
のである”と明確に提示されていたからである。基本的には無宗教である日本。クリスマ
スでは酔っ払って”ジングルベー”とがなり、除夜の鐘を聞いては過ぎてゆく年に思いを
はせる。そのような日本人としてのあり方は、日本人が洋楽というものに向かう態度その
ものではないか。少なくとも僕は、この《クリスマス音頭》からそのような大滝詠一のメ
ッセージを受け取った。この当時にそこまで考えて音楽にしていた(と思っている)とい
うことが、大きな驚きである。洋楽について深く知れば知るほど、その本流にあるものと
日本人である自分とのギャップを否が応でも意識せざる得ない。ミュージシャンの業とで
も言うべきものが、そこに見え隠れしているのだ。このように書くと暗いアルバムみたい
だが、そんなことはない”楽しい”アルバムなのである。ナイアガラ初期の頃のアルバム
と比べると演奏がタイトだし、編曲の工夫はクレージー・キャッツの萩原哲昌を思わせる。
セルフ・カバーの《五月雨》もお見事!。どこから聴いても大丈夫!。最後の曲が終わっ
たら、また1曲目に戻ればいいのだ。飽きることのない、不思議なアルバムである。