おやじの陸上競技場

最終更新日は、2002年04月14日 です。



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▼ 長距離のコニカ / 砲丸投のコニカ ▼

コニカ陸上競技部     コニカ九州陸上部

 

コニカ陸上競技部


2001全日本実業団駅伝で活躍  全日本実業団対抗駅伝の足跡  メンバー紹介  高校駅伝と選手の関わり


選手が出場した大会の記録とレースの模様が分かります。

    


氏 名

高橋 正仁

谷川 嘉朗

前田 和之

出身校 駒沢大・秋田工(秋田) 帝京大・熊本市商(熊本) 亜細亜大・諫早(長崎)
5000m 14分25秒79 13分57秒34 14分07秒6
10000m 29分09秒30 28分45秒43 28分58秒3
20q 59分52秒 60分21秒
ハーフマラソン 1時間03分42秒 時間06分22秒 1時間04分30秒
2002年箱根駅伝での活躍 駒沢大の『復路の守護神』として77回大会では順大高橋健介(現トヨタ)との激戦をものし今回も9区に起用され区間1位で後続との差を3分39秒に広げ駒大の優勝に王手をかけた。 親子2代で箱根の襷を繋いだ駅伝のサラブレット。77回大会では花の2区を走り今回は4区で帝京大の順位を1つ上げる活躍をみせた。『赤い旋風』の原動力。 予選会から参加した亜細亜大のエースとして花の2区を走り12位で受けた襷を一気に3位まで押し上げる9人抜きの活躍を見せた。また関東インカレ2部ハーフマラソンでの優勝経験がある。


コニカ陸上部は短距離種目から始まった後援会報第28号より)

 第二次対戦後の混乱期の中で既に社内では陸上競技を志していた幾人かの若い社員によって社内のサークル活動として、陸上班の活動が既に産声をあげていた。 その中で堀部を中心とする小西六(コニカの前身は小西六写真工業)チームは主に短距離種目で多摩地域の大会で活躍をており、昭和20年代の後半には4×100mR種目で東京都大会で優勝するなど一時代を既に築き上げていた。 当時の得意種目でもあった4×100mRのメンバーに初代監督の山田光良の姿が常にあった。 この頃よりコニカ陸上部の歴史が紐解かれてゆくのである。
 高校卒業直後の昭和26年に小西六に入社した山田光良は、三交替勤務をしながら陸上競技を続け結果を残してきたが、サークル活動であるは限り強くなりたい、練習する環境も整わない、ジレンマの日々が続いていた。
 その後選手として第一線を退いた山田光良に突如として昭和45年に始まった社内自己申告制度に出会うこととなった。申告用紙を手にした山田光良は、迷わず「陸上競技を通した企業の活性化についての重要性」を提案し、これまでマグマのように溜まっていた想いが噴出すこととなった。 この申告用紙を目にした当時の総務部長、人事課長のハートを突き動かすこととなった。その後社内事業計画として検討が重ねられた結果、「5年以内に全日本実業団駅伝に出場できる長距離チームの結成」を条件として陸上競技部としての活動が認められる事となった。
 陸上競技部の創部は認められたものの会社から与えられたものは甘くなかった、職場異動と年間3万円の予算だけであった。 陸上部の選手はあくまでも小西六の社員として昼間は通常に勤務を行い、練習や試合遠征の時間は業務として認められず、また合宿はもちろん試合遠征も自己負担を強いられていた。その陸上部の活動の資金は理解ある職場の有志によるカンパから成り立っていたという。そのカンパは選手達の精神的な大きな支えとなっていた。 職場異動後の山田光良の仕事は人事課で新卒採用の担当となった。高度成長時期の新卒者採用の仕事は大変な激務だった、全国の高校を訪問し優秀な新卒者を採用して来るものだった。時には訪問時に、高校のグランドに出向き陸上の新人も発掘をするという日々も続いた。当然長期の出張が繰り返された日々であった。 会社に戻れば昼休みに八王子工場のグランド整備に選手とともに汗を流すという、まさに手作りのチーム作りを行っていった。 その激務の中でも会社との約束
「5年以内に全日本実業団駅伝に出場できる長距離チームの結成」を一時も忘れることはなかった。  「5年以内に全日本・・・」の目標も、高見、原(二代目監督)選手を中心に、藤井、土屋、吉岡、山口、虎見選手などの部員も加わり、総勢16名の努力の甲斐が実り、創部3年目にして初の全日本実業団駅伝への出場権を得たが、結果は24チーム中21位という散々な結果であった。

 山田光良のコニカ人生後半は、選手発掘作業と人事課採用担当と陸上部監督を兼任する立場で陸上競技部の基礎を作り上げてきた山田光良は、現在の酒井監督や佐藤コーチの採用にも関わり、二代目原監督に道を譲った後も社員と選手の採用は定年するまで続き、関わった社員は1,500人を超える、平成元年に定年を迎えた後は創価大学陸上部監督を経て東洋大学の陸上部コーチ・顧問として現在も現役学生を見続けておられます。 現在コニカ陸上競技郎で活躍する東洋大学OB選手(小澤選手・酒井選手)の活躍も山田光良の存在をなくしては成し得なかったものであり、70才を超えた現在も元気にコニカ陸上部をこよなく愛し、応援している。

 

コニカ陸上部とは

コニカカラーでおなじみのコニカの陸上部です。 部員は、シドニーオリンピック男子マラソンで銀メダルを獲得したエリック・ワイナイナ、昨年の日本選手権で長距離2種目(5000m/10000m)を制覇したザカヨ・ガソのケニア2選手を含めて15人(4月より新人2名が追加)の部員からなるチームです。本拠地を東京都八王子市(東京都の西端)に構えて各部員は八王子市と隣の日野市の各事業場で勤務して日夜トレーニングに励んでいます。

 

2001全日本実業団対抗駅伝で快進撃は始まった

2001年元旦に群馬県前橋市で開催された21世紀最初の第45回全日本実業団駅伝で創部31年出場26目にして初めて頂点に立った。先の東日本実業団駅伝で初優勝の勢いをそのまま前橋に持ってくることができた。1979年と2000年の4位が過去最高の順位であったが、今回は大会前から一気に優勝候補として各チームからマークされる存在になっていた。そのマークされる要因としては、中距離走的な走りで日本選手権長距離2種目を制覇したザカヨ・ガソの活躍と社会人3年目の松宮兄弟の成長が考えられる。しかし最大の理由は、『全員が優勝するゾ!!』と言う結束が他に威圧感を漂わせていたのだろう。その結束を深めさせたのが駅伝1区男主将磯松の存在は大きい。

 

■全日本実業団対抗駅伝の足跡

15回 1970年12月20日(伊勢)

創部初年 不参加

31回 1986年12月21日(彦根)

19位

16回 1971年12月19日(伊勢)

不参加

32回 1988年 1月 1日(前橋)

15位

17回 1972年12月17日(伊勢)

不参加

33回 1989年 1月 1日(前橋)

14位

18回 1973年12月16日(伊勢)

初出場 21位

34回 1990年 1月 1日(前橋)

13位

19回 1974年12月15日(伊勢)

不参加

35回 1991年 1月 1日(前橋)

13位

20回 1975年12月21日(伊勢)

13位

36回 1992年 1月 1日(前橋)

14位

21回 1976年12月19日(伊勢)

10位

37回 1993年 1月 1日(前橋)

17位

22回 1977年12月18日(伊勢)

10位

38回 1994年 1月 1日(前橋)

12位

23回 1978年12月17日(伊勢)

5位

39回 1995年 1月 1日(前橋)

18位

24回 1979年12月16日(伊勢)

4位

40回 1996年 1月 1日(前橋)

23位

25回 1980年12月21日(伊勢)

7位

41回 1997年 1月 1日(前橋)

8位

26回 1981年12月20日(伊勢)

6位

42回 1998年 1月 1日(前橋)

7位

27回 1982年12月19日(伊勢)

15位

43回 1999年 1月 1日(前橋)

21位

28回 1983年12月18日(伊勢)

7位

44回 2000年 1月 1日(前橋)

4位

29回 1984年12月16日(伊勢)

不参加

45回 2001年 1月 1日(前橋)

優勝

30回 1985年12月15日(伊勢)

14位

46回 2002年 1月 1日(前橋)

優勝

 

■メンバー紹介

氏 名

出身地/出身校

自己記録

5000m

10000m

ハーフマラソン

フルマラソン

監 督 酒井 勝充

秋田県/増田高

 

 

 

2時間13分39秒

コーチ 佐藤 敏信

秋田県/増田高

 

 

 

2時間13分12秒

コーチ 大島 唯司

熊本県/亜細亜大

 

 

 

 

主 将 磯松 大輔

山口県/法政大

13分40秒44

28分07秒32

1時間01分52秒

2時間12分48秒

選 手 エリック・ワイナイナ

ケニア/ウェル・セガンダリ高

14分07秒0

28分40秒60

1時間02分27秒

2時間08分43秒

選 手 小澤 希久雄

東京都/東洋大

13分51秒05

28分40秒80

1時間02分49秒

2時間28分05秒

選 手 迎  忠一

福島県/学法石川高

13分50秒00

28分08秒45

1時間02分14秒

2時間23分44秒

選 手 酒井 俊幸

福島県/東洋大

13分56秒40

28分22秒48

1時間02分27秒

2時間13分56秒

選 手 藤巻 耕太

北海道/法政大

13分59秒78

28分58秒63

1時間03分25秒

 

選 手 松宮 隆行

秋田県/花輪高

13分40秒64

28分02秒80

1時間03分19秒

2時間18分48秒

選 手 松宮 裕行

秋田県/花輪高

13分51秒55

28分03秒43

1時間01分53秒

2時間21分44秒

選 手 坪田 智夫

兵庫県/法政大

13分45秒96

28分05秒95

1時間01分16秒

 

選 手 ザカヨ・ガソ

ケニア/ドロリ高

13分09秒31

27分44秒01

 

 

選 手 高橋 正仁 秋田県/駒沢大 14分25秒79 29分09秒30 1時間03分42秒 1時間03分42秒
選 手 谷川 嘉朗 熊本県/帝京大 13分57秒34 28分45秒43    
選 手 前田 和之 長崎県/亜細亜大 14分07秒6 28分58秒3 1時間04分30秒  

選 手 園  吉洋

山形県/米沢工業高

14分24秒93

29分48秒68

 

 

選 手 鍋城 邦一

北海道/札幌日大高

14分32秒05

28分58秒3

1時間07分37秒

 

※自己新記録は随時更新されております。 ブルーの網掛けはコニカ記録 ピンクの網掛けは今年度達成した自己新記録です。

 

■高校駅伝と選手の関わり

平成最初(1989)の都大路では大牟田高から1年生でありながら5区(3km)に起用された主将磯松大輔は区間7位を記録している、翌年の2年生では3区を走り、最終学年の3年生では各校のエースが揃う最長区間の1区10kmを区間3位で走っている(区間賞は現SBの渡辺康幸)。またその大会では、青森県名久井農高はこの区間に1年生森崎進也(01年退部)起用していたことを皆さんご存知でしたか。 第44回(1993)では福島県学法石川高が出場し4区の準エース区間に迎忠一と6区5kmを酒井俊幸が走っています。 第46回(1995)では秋田県花輪高で、4区に松宮祐行1年生を起用。第48回(1997)には、1区に松宮隆行、3区に松宮祐行が揃って走りましたその時のNHKの中継では、松宮兄弟があの宗兄弟と比較されながらの実況放送がなされました(その時の解説は勿論宗茂氏でした)。

 

コニカ九州陸上競技部

■もうひとつのコニカ陸上部

氏 名 出身地/出身校 自己記録
選 手 野口 安忠

福岡県/日本大

18m53

日本記録

 

駅伝やマラソンだけがコニカ陸上部ではありません。八王子から遠く離れた福岡で活躍を続け選手がいる。男子砲丸投げの日本記録である18m53の記録保持者野口安忠。 野口は日大を卒業後コニカに入社、故郷福岡に戻りただ一人の部員でコニカ九州で活躍を続けている。野口は、1999年に投法をグライド投法から回転投法を変えたその年の日本選手権で17m97をプット。肘の故障が伝えられた2000年の日本選手権では、18m26をプットし回転投法が馴染んできた。肘の手術で完全復調が期待される今シーズンは更に回転投法に磨きがかかり夢の19m台を期待したい。是非コニカ九州の応援も宜しくお願い致します。

 

野口安忠をもっと知りたい方は野口安忠のホームページをご覧下さい。

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佐藤敏信コーチのランニングアドバイスやメンバーへの応援掲示板もあります。

 

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