「国労文化」1978年3月

二月の或日から

 その日私は2階にある喫茶店から雪がちらつき始めた通りをぼんやり眺めていた。

 私の前には以前の職場である駅の友人が座っていた。同い年の彼は駅で最も親しかった友人の一人で2年前ほど年私が駅を去り列車掛になってからも信頼する一人であることに変わりはなかった。

 自分が今でも引っかかってしまうのは複線化による合理化が具体的な姿を見せないが故にいよいよ重苦しいものに思えてきたあの時期に自ら肥大させた不安に押しつぶされるように、結果として試験を受けそこを出ていったことだ、出ていったということ自体ではなく不安というものになすすべもなく、敗北していったということが俺のだめさだった。”未来”という不安というものがあったとしても、なぜ、それを自分ひとりの孤独のように閉じ込めてしまい、仲間たちも同じ合理化の不安を生きていたのだということに気づくことができなかったのか。あの職場は俺にとって鉄道のの最初の仕事場だったということ以上のなにものかでありおまえやOやこれから訪問するNさんや誰某や、あらゆる意味で俺を育んでくれた場所だった。それなのに、自分がそこで受けてきたもののかけがえのなさを俺はあのとき進んで引き受けることができず不安という自縛の中しか見えなかった。そういう悔恨とも嫌悪とも説明できない重さはどうすることもできず心の底に沈んでいくように思えてならない。

 そんなことを私は彼に向かって話していた。このモチーフの話は何度か彼にもしたことがあることだった。

 彼は何と答えたかはっきりしたことばでは覚えていないが、自分が残ったのだってそんな自覚的なものではなかったとか、そういうおまえの考え方があったとしても今は今の場所を一所懸命歩ってみるより他ないじゃないか、という意味のことを言ったように思う。

 二人ともぽつりぽつり話し続けた。「合理化」は彼にとっては新しい駅舎の図面が提案されるところまで進んでいたし互いにとってそれは過去のことではなく今これから生きていることについてであったから、生々しすぎるからこそ心の底まですくっていってくれることばというのはなかなか生まれなかったのだと思う

 

 その日はそれから駅の先輩で新婚2ヶ月のNさんのアパートに二人で押しかけた。雪の降る広い街路をずっと歩っていったが暖かいこたつと寄鍋を用意して夫妻は待っていてくれた。酒屋である奥さんの実家から送ってきてくれた樽酒を飲みながら話し続け、夕飯までご馳走になり、夜、みぞれの中を、夫婦というのはいいもんだなと胸をあったかくしながら帰った。

 ほんとうにいい一日だったと思う。私たちは何かの縁で国鉄で働き同じ職場で働いていたりする、そして現在の社会システムの一要素である労働組合に属している、しかし、その水準で様々に語られる理論も交渉の駆け引きも国鉄の「民主的規制」とかも、あの日のような私の1日に触れてくることがない。私や私の友人たちの最も深い所での戦い、あるいはささやかな、だが深い喜び、要するに日常性に触れ、それをゆりおこしていくことがない。そういうものが私たちの戦いの根拠になり得るのか? 私はそれらのことばではなくあの日のTやN夫妻との語らいの時間を信じる。そこから私はたちあがりたい。たとえどんなスローガンが掲げられていても、ひとりひとりのもっとも内奥で仲間が見えなくなった時それは敗北であり、逆にどんな過酷な現実でもたおれてもたおれてもそこに回帰し、そこから何度でも立ち上がれるそんな場所−仲間が信じられたら、それは、遠い勝利への一歩ではないのか。

 その思いは、私があの日の友人やT夫妻を大切に思う根拠であり、また結果である。そして私はそういうところからのことばだけが本当の私たち戦いことばだと思い続けている。