夜の行路


暗い窓には不思議そうな男の顔が浮いている
事故さえなければ一番気楽な商売さ と君はまぶしい口もとで笑った
死んだ父よりも若く私よりも老いに近い機関士が引くこの夜の貨物列車の最後の箱で
耳をつんざく轟音だからこそ心は音を失い
きしむ激動だからこそ心は確かな動きを失い
隔てられた暗い燈を見つめながら心を
凄惨な<時間>が高層の気流のように流れるのだ
事故さえなければ………
 事故さえなければ………
 君のさりげない思いやり ことばの表情が凍りつくのを私は何度も思い浮べていた
 ああ<事故>が起らなければ………
君の祈るのは平安の日々だ 何もないことがすべてであることを君は祈っている
君は君と君の家族にある日突然 みえなかった大気が衝撃のように出現し
何ものかが撩乱のどん底に君をたたきおとすことを
そういうことがありうることを知っている
君はその何ものかを指すことができぬまま
いやできぬからこそ<なにものか>を忌み
おののき それを封じるかのようにひっそりとつぶやくのではないか
 事故がなければ一番気楽な仕事だよ
それが君と君の家族へのほとんど唯一の祈りなのだ
耐え難い仕事であるからこそ何も望まない平安を望まなければならない
 だが君はひとつ思い違いをしていないか  君の貨物列車が踏切で自動車に衝突すること  その物理学的解析が事故なのではない 君の貨物列車が衝突したのは立尽くしていた日常であり君が乗っていたのは暗黙の共同だった  だからそれは事故なのだ
そのとき君は<なにか>が予め建設されたレールの上だけに潜むのではなく君の生活の二重だということも知るのだ
きのうの次にはきょうがあり きょうの次には明日がある と 信じている無言
だが
と、ある日君の妻が嘔吐する 吐きだしているのは届きようのない君の愛だ 背をさする君の指がふいに肉体ということに息をのみ緊張の中で広がるなまなましい違和は君の埋められた履歴を真空に浮遊させる
と、ある日 君の幼子が高熱を出していつまでも眠り続ける 小さな額にふれた君の手のひらが全身をつつもうとする
と、ある日 乗務を終え仮眠のベッドに身をこごめる時 君の胃を不安の鈍痛が走っていることに覚醒する
 君は眠らなければならないと定められた時間に脈打ち次第に巨大になってゆく目覚めで反逆してしまう その反逆が数時間後の再びの乗務に自らの上にきっちりと罰せられるのを知っていてもどうにもならない
それが <なにか> ということだ
君は鉄道の事故だけを忌んだのではない
言い換えれば君は貨物列車が何ものかに激突することを忌んだのではない
ある物体がある物体と衝突すること そのことと君の苦悩は別の部屋で暮しているのに君はそれを 来歴のない同棲だと思いちがいしている
君の忌んだのは自らの手でつかめない妄想だ   自らの手で築けない不定の<未来>だ
現実と呼ばれる定められた生活の その何ものかに定められているというそのことがいらだつ君であり君の蟻地獄の苦悩ではないか
確かに流れ 喜びもあり悲しみもある日々 と信じているきょう その確信の完璧な無根拠に気づいてしまうとき 取りのこされていく君が身を包もうとする幻想こそ君のくちびるを動かすのだ だから君が忌んだのは不安の概念であり 君が陳述したことは 世界は この君の現実は不安 そのものであるということだ 君は自らの上空をひっそりと仰ぎながらそしてつつましやかに すべての<バラ色の未来>や<建設的な健康>というものを忌んだのだ 君は否 否とつぶやきはしないが明るい饒舌に向うと確かに君や君の家族の日々の時間がこちらに沈んでいくことがあるのを知っている
  事故さえ
  ・
  な
  ・
  け
  ・
  れ
  ・
  ば
  ・
  ・
だが そのためにこそ君の皺も私の痩身も形作られたのではないか 君のなげきは全面的だ 君が歩くのなら すべての回りの土地を耕作しなくてはならない そこは最初の一撃を加えたときから既に未墾の沃野である
 
列車が傾く この箱が傾く君の思考が傾く
この長大なトンネルの中で峠はすでに越えられたのか 午前二時の空間を秒針が切ると心は雪崩のように裾野に広がる
そして君の顔が脱力感のように降りてくる
止まない雨はない
どんな仕事だろうと終わりがある
おまえの行路表の最終の時刻がくればおまえも解放されている
 <あと一時間!>
そして時間ということはすべてを溶かして運んでいってくれる と 君は重苦しい救済の祈りを胸にそこに静かに倒れるのか
 だが 私のために祈ってくれた優しい人
 《君はこの現実を深く病みそしてそれを救う考えを生まざるを得なかったほど優しい瞳なのだ》
だが 優しい人 友よ そうであるならばあなたと私の《自由》 も必ず次の出勤の時刻がくれば消えるものなのか
 その明滅のくり返しの中で闇だけを救うことはできない 拘束の時間を相対化するならば そのことで自らを救済するのなら 自由の時間も相対化される
あと一時間 私の列車が凍てつく盆地の中央に築かれた都市につく 私は水銀灯にてらされた駅の構内の底を白い息をはきながら詰所にむかい だれもいない燃える石油ストーブと長椅子の部屋を通りぬけ一人で起きている当直と二言三言ことばをかわすと寝息の気配が安堵のように満ちた寝室のドアを一すじの光で開け仲間たちが眠る二段ベッドの下段に身を沈める ことができる あと一時間 私はこの激動の箱の中と睡魔の中をぬけ ベッドの中で身体をのばし眠ることを許されているはずだ それはほとんど今の私のすべての願いがみたされることではないのか そしてそれがあと一時間 確実にやってくるのだ!
君の優しい瞳がうかぶ
《どんな仕事にだって終わりがあるのさ つらい思いも必ず終わりがあるはずだよ》
だけれども ほんのわずかな睡眠のためにすべてのねがいをかけ満たされた充実に眠りに落ちこんだはずの私は再び起きなければならない そして初電で再びこの峠を越え二時間後首都の西 朝日のさす平野の違った寒さの中に立つのだ その時私はあと二時間たてば勤務は終わると考えなければならないのか
 そして帰着した詰所に胴乱をおき時刻表を見ながらあと一時間もしないうちに自分の部屋でこんどこそゆっくりねむれると考えなければならないのか 家へつく 朝食もそこそこに冷たいふとんにもぐりこむ だが 《どんな仕事にも終わりがある》 と考え自らの救済を連ねてきたものはここで復讐される
ふと目がさめる 午後一時 冬のひざしが部屋の中に深くさしこみ私は重い体に一瞬悪寒が走るのを知る 私が既に何時間かねむりに費やしてしまったこの自由な時間にも終わりがある 終わってしまう もうあと次の勤務までに一八時間しかないと
仕事中の私があと一時間 時が流れるのをまてばいいのだと考えたことが今逆流する あと一八時間が流れてしまえば再びすべてはふり出しにもどってしまうではないか 一八時間の間に私は夜ねむらなければならない 二回ほど食事をとらなければならない テレビを二時間ほど見るかもしれない………片道三〇分の買物にでかけると往復では一時間かかることになる………もう私の算術は破綻する
 《自由》 君と私の自由はどこへ行ったのか 君が祈りのように
《どんな仕事にも終わりがあるんだ》
と言った時それは君の自由をめざしていたはずだったのに その時の完結の余韻はどこへ行ったのか
<時間>が君を救ってくれるのなら必ず<時間>が君を殺していくはずなのだ 一度なにかに身をゆだねれば君はゆだねたなにかを映してしか歩めない 際限のない自己規定の再生産しか残されない
君の思考の二重にはこんな膨大な恐ろしさが口をあけているのに ふだん君は実に都合よくそれを忘れてしまっているだけだ それで<時間>というナルシシズムで書かれた君の思考の帳尻は合わさっている
もしもそのことを地面を向いたまま通りすぎることができたのなら錐をもむように消失点にすいとられていく不安は君の胸のりんかくを脱色する そして君は透明なりんかくを感じ それが何であるかわからぬまま暗黙の了解に 了解を重ねたのだ 君の体は飽和した思考の稜線からめまいのように黙約の土地に着地する そこは等身大だ なごりおしげな首の長さも いいきかせるくちびるもほんとうはすべて自身が自身に定めた定めではないのか だからその黙劇の舞台は君の重いむねの上であり その終幕も崩壊も君の内側へ無言で切り込まれるのだ 其処で君の舌は湿っている 自らの違和は同志に投影し自らは疑わない了解に変身する そして陰惨なうでで同志を扼殺し 身はなにものかにおもねる卑屈に変わるのだ 最初から奴隷なのではない 君は<支配者>におもねることによって<支配者>を析出させるにすぎない  君は架空の対峙の構造を<現実>かと思い  現実を浅い夢かと思っている だから君はいつも<現実>というのは脳の上空で演ぜられるありきたりのことばのなげあいだと思っている そういうふうにしか <現実>をとりだすことができない 一方の虚妄をあばくことはもう一方の正当をいったことだと勘ちがいし 一喜一憂し 構図の中で自己意識をほりこんでいく 架空なのだ 君は一度に君の構図自体を疑うことができない 君の心は風船のように一方をつかむともう一方がふくらみ そこをつかむと反対側がふくらむその内面にある
だが 君が同志に砂をかけることによって自嘲することも だれかを管理する思想に乗ることも 架空の平安に横たわることもきらうなら 君の恋人や人々が凌辱の翻弄を受けることに叫ぶようにすべて破壊の心性を出現させるならば 君の思考は極限に耐えられなければならない
登りつめ次第に薄くなる大気の中でその場にたおれふし ささやかな解放感と君の自由を引き換えにするあらゆる誘惑をしりぞけなくてはならない たよるものはあちらにもまたこちらにもないことを知らなければならない  君がどんな仕事だろうと終わりがあるんだと言いきかせるようにつぶやいたとき
 拘束は次の自由のためであり 自由は次の 拘束のためであると 君は言ったことになるのだ そしてそれはもっと巨大なこうそくではないかと今 君は初めてうたがう それはぴったりと全世界に重なっていたから見えなかった 君は君の自由とこうそくが交互におとずれる<時間>だと思っていた <仕事に行くこと>それがこうそくだと思っていた しかし 今君はそう考えている君自身が 仕事に行き家族に帰りねむりそして再び仕事にいくそのくり返し自身がひとつの巨大なこうそくの人生ではないかと 身をひきはがすように考えださなくてはならない
おそらくその時世界はゆっくりと青空を裏がえす
君の世界は理解ということの哀しい過去を知り胸は遠いところからの無言の愛におされている
 
私は私が管理されることをきらう だから私はだれをも管理しようとする思想をひとつひとつ拒絶する 私は同志に売られることを深く悲しむ だから同志を売る思想を自身の中で拒絶する
私は自らの労働が私の友人や家族や恋人やすべての人の生活をささえることを望む 私は私の生活が私の友人や恋人や見知らぬすべての人の労働によってささえられていることを実感したい 私は今一四両のタンク車で臨海の工場群から内陸の都市へ灯油を運んでいる  それが盆地の人々の団らんの温もりになることをそして我々の労働が我々の手で制御されることを  西暦一九七六年の生産様式の中で望んでいるのだ ずらりと駅に並ぶ自動券売機を我々が拒絶するのは 機会の物理的構造をきらったのでもひとがへらされるからでも
ない 我々の労働が何者かに制御され彼らの自在に労働が構成されていくことが許せないからだ だからこそ我々は人がへらされなくとも たとえ物理的に作業が軽減されようと無自覚的にその労働を拒絶しているのだ
我々が厖大な商品の群の中にいながら満たされることがないのはそのすべてを手に入れることができないからではなく すべての商品がこうすれば売れるという思想につらぬかれ 我々は常に彼らの思考の中で完結されているのを感じるからだ 自己規定されること その息苦しさが耐えられないのだ 管理された労働 管理されている感情をいかに少なくするかを主題に我々をさらに高度に管理しようとする思想 管理された休日 意図的であれ無自覚的であれ管理しようとするすべての思想を 私は拒絶する 我々の日常が益益息苦しいのはきっと 我我のむねは一歩一歩飽和に近づいているからだ だからこそ <時>はますます平板に流れるように見えるのではないか

ささいな願いではない 私は何も望んではいない ただひとつ すべてを望んでいるだけだ 君や私の中に我々の権力が帰属することを望むだけなのだ

  冬の
  夜の行路だった


 国鉄詩人」151号 1984年3月   (1976年12月執筆)


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