国鉄詩人 214号 1999年8月 初出
1999年6月 大阪 天王寺 第54回国鉄詩人大会感想

「無名性」の深淵


 詩人連盟会員の膨大な個人詩集の中の或る一冊、あるいはアンソロジー「国鉄詩集」の一冊、それらを読み進むとき、ある生々しさに息詰まり、それらの言葉が書き付けられたということ自体を、そのことの「唯一性」を「読んでいる」ことがある。それらの作品―集積が読み取らせるのは、書かれた言葉の果てに湛えられた静寂の沼であり、あらゆる言葉がそこから未来に向かってあふれ出し、すべての過去を無限に愛惜させる、ある揺るぎようのない確乎とした「価値」、すべてを言葉無きままに受け入れさせ、そして読む者の背中を勇気によって押し出すような、無形の「力」である。
  一九九六年に発行された「国鉄詩人二百号記念特集」でそれはある頂点に達する。そこに収められた、詩人連盟五十年の継続の中から選出された各人一編の作品―集積、一頁に二人分ずつ整然と割振られた空間の中で、一枚の写真と愛情あふれる文章とで再現された物故詩人の人生とその面影、その死者達が残した作品群の頁、そして一時期運動に関わりながら現在は消息不明の詩人達への言及。それは「アルバム」であり、その頁はすべて確実な日付の中で、すなわちただ一つしかない「歴史」の中で展開された事柄を言葉と紙の上にすくい取ったものとしてこの世に垂直に存在している。
  国鉄詩人連盟、はいつか終わるだろうし、それは何ら悲しむべきことでもない。 なぜなら、〈我々は無名であるが故に、正しい〉、この一九四六年に全国の国鉄職場に向けて発せられた檄文の最後の一節、この一節こそが詩人連盟の集団的な価値を指し示しているように今私は感ずるからである。無名性の誇示とは、政治家、知識人、タレント等の「有名性」を自分も持ちたいのに持てない劣位感を物差しを逆転することで今の「自分」そのままに優位感へと転換する自己慰撫技術なのではない。ましてや「専門詩人」と「サークル詩人」などという、いじけた対比にも関係がない。むしろ或る大衆的ヒーロー、政治家や将軍や企業家の有名性=個人の振る舞いによって歴史が語られることの否定、その他大勢の無名性がその有名対象を見つめ、支持し、魅惑され、反発し、従属している、等々の枠組みで語られる(現在の新聞記事にも多く見られるような)「歴史」の否定なのである。だからここで歌い上げられる「無名性」は存在規定ではなく、遂行的に作り上げ続けるものであり、有名性によって構成される「歴史」の完膚無きまでの分解と、集団的な自分たち、〈力〉への確信が作品に賭けられるのである。だから、国鉄という偶然的な入口を経てきたとしても、詩人連盟は「国鉄」という範疇に留まれるものではなく、その最も核心に、言葉の果てに共有されるこのような位相は、現実的な構成員(私や誰それの個有名で表示される肉体)の消長に関わらず、持続するものなのである。

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