国鉄詩人通信 221号(2005年9月1日発行)初出  執筆5月〜8月   


「自立した個」ではなく、連帯的な「公」の創出こそを

・・・2005年4月のJR西日本福知山線脱線転覆事故に寄せて・・・

 

 かつても、今も、「日本人は集団的に行動するが、自立した個、の確立が必要だ」という言い方がよくされる。確かに時にはその言い方が、抵抗の支えになることもある。しかし、「新自由主義」というのだろうか、「官から民へ」、「規制緩和」、「成果主義」、「自己責任」、等々という言葉で、人々が完結した「自己」という存在であることを求められ、それが支配ということそのものである現在では、「自立した個」、というアイデンティティ、すなわちそのような「自己規定」は、むしろ、賃金差別やほとんど身分制に近い労働者の階層性など様々な差別を合理化し、「自己納得」させる、もっとも強力な仕組みになっている。
  国鉄分割民営化反対闘争の際、いかにして、それまで築き上げられてきた職場の連帯性が、「私は私」「誰も助けてくれない」「自己責任」、等という自己規定の生成によって敗北していったかを、我々はつぶさに見てきた。その傾向性は今や社会総体に拡大しているようだ。儲ければいい、という発想は、自分が「何をしているのか」、この行為が「どんな結果をもたらすのか」といった社会的広がりを持たず、「自己」というブラックホールに落ち込んでいく。自らが構成していく具体的内容としての〈公共性〉概念を持たず、〈私利〉しか持たない企業経営者、政治家、文筆業者達は、「私利」増強の主張に過ぎないことを、〈官から民へ〉という言い方で反復している。
  今、アルバイトや派遣しか職がない若者は、将来を見越した生活設計を立てることも出来ない。有期雇用を強いられる者達はおどおどした人生感に萎縮する。そして一方には、そのような低賃金と不安定を〈契約〉によって「自分以外」のものに押しつけることで、「自己保持(私利)」を図ろうとする、声の大きな者達がいるのである。たとえば保育園の「民営化でコストが削減された」と主張する高賃金の新聞記者や、「民営化による新ビジネス」参入者達は、削減されたコスト=人件費=賃金額でどのような生活が可能なのかに触れようとしない利己主義者達である。
  しかし、このような状況は限界に達しつつある。自らを縛るものとして「公」を設定し、そこからの逃亡としての「私」を空想的に展開し、私利のために「官から民へ」と繰り返す循環性は、その外部から、具体性によって破壊される。今回の事故は、そのような具体性による破綻の始まりであり、「公共的」な存在としての私たちが、具体的な仕事において何をなすべきなのか、を迫っているのである。
  空想的な「民営化」論者に、具体性を突き付け、電車ダイヤの無理について指摘し、人々のために安全を確保できるのは現場の労働者だけである。そのような形で公共性=安全を構成していくことができるのは、労働者だけである。ものが言えない職場だ、と嘆く前に、かつては「ものが言えた」職場であった国鉄の職場も、戦前は封建的な場所であり、先輩達があるいは我々がそのように作り替え、維持し続けてきた空間であったことを、もう一度思い起こす必要があるのだろう。
  詩人大会名で発表する予定だった声明文は私の力不足で完成しなかった。お詫びしたい。声明文の一次案だったものをとりあえず以下に掲げておきたい。

  JR西日本福知山線脱線転覆事故に対する声明(案)

 4月25日、JR西日本で起きた脱線転覆事故は運転士を含む107名の死者と500名以上もの負傷者を出す、鉄道事故としてはここ40年以上なかった大惨事となってしまった。
  戦中から鉄道で働き、あるいは戦後復興期、高度成長時代の鉄道輸送を支えて退職し、また国鉄分割民営化を越えて現在はJRで働く、そのような様々な男女の鉄道員であり/鉄道員であった我々は、この事故に深い悲しみとともに、強い憤りを抑えられない。
  既に、マスメディアにおいてさえもJR西日本の安全軽視体質が事故の根本にあることが語られている。
  儲けのために、他社から客を奪うために、極限まで高速化を図り、余裕時分のないダイヤを設定し、かつ1秒単位の遅れまでを報告させ、ミスをした運転士には「日勤教育」という名の見せしめ嫌がらせを恣意的に行ない、そして、それが原因で運転士の自殺者まで出していた。このような体制の中で、ミスへの処分を恐れ、列車の遅れを少しでも回復すべく直線区間で最高速度を出していた若い運転士が、急カーブに進入の際、制限速度である70km/hまでスピードを落としきれず100km/hを越える速度でカーブに突入してしまったことが現時点で今回の事故の直接的な原因とされている。
  JR西日本は91年の信楽鉄道内での正面衝突事故では裁判でも最後まで自らの責任を認めようとしなかった。また、各支社への地方運輸局による保安監査では、99年以降事業改善命令や警告、文書指導を5回受け、昨年4月に起こした京都駅でのポイント切り替えミスに対しては、航空・鉄道事故調査委員会から「余裕時間がないことが事故の要因である」、「定時運行確保に対する強い意識が、異常時にあせりを招き、基本動作の確実な実施を阻害した可能性があった」、と指摘されていたという。今回の事故に関してと全く同じことが既に外部から指摘されていたもかかわらず、このような大惨事を引き起こしたのである。
  さらにJR西日本はJR東日本やJR東海と同様、多くの組合差別による不当労働行為を労働委員会から指弾され続けていることも忘れてはならない。
  そこで働く者たちに自由にものが言えない恐怖とそれによる形式的な服従をもたらすこうした体質が安全にとって致命的な欠陥であるのは、鉄道員である/鉄道員であった我々には自明のことである。そればかりかこうした恐怖を動因とする命令と服従が組織を、いかに不条理で脆いものにするかを、我々国鉄詩人連盟は世代を超えて共有している。なぜなら、我々は旧軍隊での経験を描いた多くの作品を持っているからである。
  そして、現在のJRにおけるこのような体質は政府の政策としての「国鉄分割民営化」の過程で形成されてきたものであることも我々は実感し、また確信している。したがって、「国鉄分割民営化」の過程で起きたこのような職場の「荒廃」について変革しないならば、再び事故が発生してしまうだろうことを我々は恐れる。最近、「一流」企業のいわゆる「不祥事」が頻繁に報じられているが、同じような「荒廃」がJR各社に限らず、他の工場や様々な職場でも、露呈し始めているとしか思えない。
  1987年の「国鉄分割民営化」の過程で我々国鉄労働者は職場から200人もの自殺者を出してしまった。その背景には、新会社の採用人員を絞ることにより、誰もが他の別の「誰か」がクビになってくれなくては新会社に行けない、という選別雇用の仕組みがあった。会社・当局の言うことに従わなければ新会社に行けないという宣伝に対し、誰かをクビにしてしか自分は新会社に行けない、と思い悩み、それまでの職場の連帯感との狭間で自ら命を絶った者、あるいは仕事の上でミスを起こし、もう自分は新会社に行けないと悲観して自殺した者・・・・、我々は当時の悲惨な状況を今回の事故で亡くなった若い運転士の行動に重ねざるを得ない。ダイヤ改正毎の団体交渉が形骸化されて現場の意見が無力化されていったのもこの「分割民営化」の過程であった。
  「国鉄分割民営化」に始まるいわゆる「新自由主義」は、「私有化」を「民」営化と言い換え、「公共性」を「官」と言い換えることによって、我々が築き上げるべきものである「公共性」から逃走し、刹那的な「私」的利益のみを追求して良しとしており、安全、すなわち現実の生産、労働現場の具体性について語るべき言葉を持てない。彼らは今回の事故に対し「効率性と安全性は対立しない」とか、「国鉄の悪しき体質が残っていた」などと抽象的で空虚、報じられる事実の前では滑稽ですらある自己弁護を口にしているが、本当に安全を確立しようとするのならば、この事故の具体性をこそ語らなくてはならない。
  国鉄退職者である者にとって、信じ難いのは、既に限界近くまで高速化し、さらに停車駅を一つ増やしたにもかかわらず、運転時分を増やさない余裕時分のないダイヤがなぜ設定されてしまったのか、ということである。少なくとも分割民営化過程以前の国鉄であれば、運転士達は組合所属の如何にかかわらず、団体交渉でそのようなダイヤを自らの誇りと責任にかけて絶対に認めなかったのではなかろうか。また運転士以外の様々な職種の者たちも会社側の施策に意見を述べることは義務であるとまで感じていたはずである。そのような姿勢、すなわち一企業の利益よりも、私の賃金よりも、安全という「公共性」を優先する姿勢が、この間の「民営化」、「規制緩和」という政策、言い換えれば「利益」・「競争」・「生き残り」・「自己責任」といった語彙でしか語ることのできない「個人化」思想の前に、萎縮してしまっているのではないか。
  結局、自らが公共性を作り上げていく意志のないところでの「規制緩和」とは、具体的な安全についてもっとも詳しい現場の労働者の見解を無視し、経営における利益のみを追求する競争に社会を巻き込み、このような惨事を引き起こすことに過ぎなかった。このことは政府による業界への参入規制撤廃(緩和)や運賃自由化といった「規制緩和」により過酷な労働条件(個人請負化、長時間労働)と賃金低下に見舞われているタクシー運転手やトラック運転手の場合においても、また、分社化・契約社員化による低賃金化が進むバス運転手の場合にも、事故の危険性が高まっていることを意味している。
  既に我々の多くは鉄道の現場からは去っている。しかし、かつて自らが誇りを持って働いてきた鉄道において、「新自由主義」・「規制緩和」の名の下に、安全を守る使命が軽んじられていることを怒りを持って糾弾する。また、今鉄道で働く我々は、あらためて自らの現場において安全を確立するために闘い続ける。
  今回の事故で亡くなった方々の冥福を祈り、負傷された方々の回復を祈るとともに、「安全」という公共性・連帯性を確立するための〈勇気〉を持って、我々自身がそれぞれの場所、様々な形で、書き続け、また行動することを、ここに明らかにする。

二〇〇五年五月二六日
第六十回国鉄詩人連盟大会 (蒲郡)

国鉄詩人連盟 に戻る