「思想運動」1980年7月1日 198号 芸術運動部会全国会議報告

批評性としての「労働者文学」

 多くの場所で語られる「労働者文学」という言われ方にはどこか不分明さがあると私は思ってきた。
 国鉄詩人連盟の友人に誘われ、この集まりに参加した後もやはりその思いは残された。
 ただ参加者の真摯さには目を覚まされたように思う。

「我々」という意識の形成に向けて

 私なりに考えてきた、「労働者文学という言葉を矛盾なく使うにはどう理解すればいいのか」、について述べることによって感想に変えたい。

 私は労働者の実相を描く」とか「労働を書く」などというようなことは考えたことがなかった。ただ目前にある、あるいは覆いかぶさってくる圧力感のようなものについてその由来やその構造を明らかにしたいと考え、またそれに拮抗しそれを無化したいという心のうねりを定着させることによって、その圧力感の中で共時的に生きる、「我々」という意識を生成しようと考えてきた。だから私の作品の言葉は仕事を書いたとしても現実の仕事の具体性に向かってだけ集中するものではなく、圧力感として感じられるすべてのものに対して発しているのだと考えてきた。

 現在支配的に流通する全ての思想を「ブルジョワ文化」と呼べば、それは自己円環的論理をもって自己の完全性を主張しているものである。

 いまや、「労働組合幹部なんて俺たち下部の者のことなんか考えちゃいないよ」という類の幹部批判は、「政治家は国民のことなど考えていない」というような政治批判と同様、無効である。したがってそのような内容の労働者文学「運動」も無効である。なぜならそのような言い方は「じゃあ、お前がやってみろ」という言い方や「何だかんだ言っても現実に組合によって恩恵を受けているじゃないか」という言い方と一対になっており、その前に霧散し結局その幹部と自分との相互規定的な構造を保存するなりゆきにしかなれないからだ。だからこそ、社会的に公認されてしまっている、通俗的な問題提起として、「政治家は国民のことを考えていない」などと新聞だって安心して取り上げるのだ。

自明な概念への批評性を

 下請け問題にしても同じだ。下請けにも目を向けなければならないという問題提起である限り昔から言い古されたことであって「芸術」としては(組合運動としては、ではなく)どうということはない。芸術あるいは思想としての問題は下請けと本工という構造を自明性として支える了解の仕方への批判にある。たとえば毎年春闘時の新聞をにぎわすことになっている、「大企業や国鉄の人はストができるだけまだマシじゃないか、俺たち中小企業じゃストなんかやったら会社が潰れちまうよ…」という自称下積み生活者たちの甘ったれた根性と、逆に、国民の皆様の要求実現のための国民春闘で得体の知らない影に向かってご機嫌伺いをしてみせる卑屈な根性とが、実は密通していて結局本工と下請けという差別性を固定化している大衆の側からの思想的背景になっているのではないか、ということが問題なのだと思う。

 「議会制民主主義」は支配と被支配という項目だけでなく、その内での反逆という項目もくり込んで立派に完結し、現存の支配・被支配を成立させているのである。そして現在ではその系内に於けることばはほとんど全ての場合に対応できるほど高次化し、緊密に連携し、自己飽和に近くなっているように見える。そしてこれらすべての通俗的言い方(組合幹部は下のも者を考えていない云々、等々)を指して「ブルジョワ文化」と呼ぶべきなのだ。

 「労働者文化」―もしそう呼ぶとすれば―とは、それと並行したり対立できるものではない、それらを止揚して成立できるだけだ。現在の「文化」に対する批評性としてのみ成立するものだ。そして「ブルジョワ文化」が自己完結的な世界了解として成立している以上、後者は意識にとって全面的な批評性にならざるを得ない。「労働者文学」もその批評性の一環として存在するはずだと思っている。

 そういった私なりの考え方からすれば、私たちはまだまだ、提出された作品の中で自明性として形成されているさまざまな概念に対して批評を加え続けなければならないのだ。