電池を交換

 時計の電池が切れてしまった。
 前から液晶が薄れがちかなとは思っていたのだ。
 たぶん電池が切れかけているとは推測していた。
 といって、対策はとくに立てなかった。
 電池交換はめんどくさい。
 失敗したら、せっかく今は動いている時計を失うことになる。
 動いているうちはそのままでいこう。

 財政赤字に対する日本政府の姿勢と同じである。
 たしかに赤字は問題である。近い将来、破局が訪れることは確実である。
 しかし、これに対するには抜本的な構造改革と、蛮勇に近い決断力が必要である。
 官僚や同僚政治家の恨みをかい、民衆の怨嗟の声を聞くことになる。
 暗殺の危険すらある。
 それを思うと手をつける気になれない。
 ままよ、私の任期中にはまだ破局は訪れまい。
 もっと若く、優れた、リーダーシップのある人物に対策を任せよう。
 といった感じで対策を先送りにし続けてきたのである。

 そして破局が来た。
 突然「ピッ」と音がして、全ての表示が消えてしまった。
 私の任期中になぜ来てしまったのだ、と天を恨んだが、考えてみれば、首相と違って時計の主はずっと私であり続けるわけだ。
 適当な時期にバトンタッチすればよかった、と後悔したが、もう遅い。

 さて、緊急対策本部を設立し、抜本的な改革に取りかからねばならぬ。
 対策としては3つの選択肢があげられる。

 1)新しい時計を買う。
 2)この時計を維持する。
  a)時計屋で電池交換してもらう。
  b)自分で電池交換する。
 
 電池が切れるたびに新しい時計を買う、というのもなんだか大仰だ。
 環境保護の点からいっても好ましくないように思う。
 電池交換は、まだ自分でやったことがない。
 ただ、簡単だ、という話は聞いているのだ。
 裏蓋をこじ開けるのがちょっと厄介だが、開けてしまえばあとは古い電池を外して新しいのと取り替えるだけ。
 ひどく安い、という情報も仕入れているのだ。
 時計屋で電池交換を頼めば2000円。自分でやれば、電池の実費だけ。安ければ300円で済む。

 時計の裏を見る。
 裏蓋はネジで止められている。小さいドライバーでなら開けられそうだ。
 幸い、精密ドライバーは持っている。
 誘惑に耐えきれず、裏蓋を開ける。
 思ったほど単純な作りではない。
 中心の精密構造を、金属の板でしっかりと抑えている。
 防水加工というものだろうか。
 電池は2個見える。「SR927W」と書いている。
 ここまで見て、電池の記号をメモに書いてから、電気屋に行く。
 小さい、どれも同じとしか思えない電池がいっぱい並んでいる。どれも微妙に大きさとか厚さが違うらしい。
「SR927SW」というものがあった。店の人の説明では、927Wと同等品だとのこと。
 これを2個購入。530円*2。安くないなあ。
 いやいや、きっと時計屋に頼めば、3000円取られるのだ。そうなのだ。

 この電池を入れ換えようとしたのだが、聞いているほど簡単ではない。
 まずカバーを外さねばならぬ。いろんなところに引っかかりがあって、なかなか外せない。
 ええと、ここを外すためにはこのカバーを先に外す必要があって、そのためにはここの引っかかりをずらして…と、とにかく外しまくる。
 最後に、強引に極細マイナスドライバーでカバーをはがすと、極小のバネがびよんと飛び出た。
 これ、どこから出てきた?
 やはり、何らかの形で役に立っていたものであろうな。
 まあいい、現在喫緊の問題は、電池交換だ。
 バネの如き枝葉の問題にかまけて、根幹の電池交換をおろそかにすることはできない。大政治家の道ではない。
 バネは無視して電池を入れる。
 バネは放っといてカバー類を元に戻し、蓋を閉める。
 うまく閉まらないが、無理矢理押し込んで、閉める。

 おお、液晶に表示された。しかも全ての表示が。
 景気がいいなあ。
 と思っているうちに表示がぴよぴよ変わる。本来なら数字が表示される液晶の文字盤に、「E」とか「ヨ」とか「巳」とか謎の記号が飛び交う。
 時計も復活できて、嬉しいに違いない。その喜びを表現しているのだろう。
 そうか、よかったな、がんばれよ。
 暖かい気持ちで眺めているうちに、記号の乱舞は止まった。「BATT ERROR」の表示が点滅するのみ。
 そのままうんともすんとも反応しなくなった。これで終わりと見える。
 液晶にはさっきのエラー表示と「9」という謎の数字のみ。

 やはり、さっきのバネがどっかから外れたのが敗因であったか。
 まあ、ともあれ、電池交換は成功したと言えよう。ともかくも、液晶は表示しているのだから。電流は流れているのだ。ただ、その制御に失敗しただけ。
 いわゆる、「手術は成功したが患者は死んだ」というやつだ。
 やむを得まい。こうして医学は進歩していくのだ。
 医学のためなら患者の命など惜しくないのだ。
 私だって、経験を積んでいくうちには、きっといつか電池交換に成功し、時計も救うことができるようになるだろう。

 というわけで私は、再び電気屋にむかい、時計を購入した。
 デジタル時計880円。電池より安かった。


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