遺跡を息せき切って

2月26日(金)
 さて、アンコール遺跡に出かける前に、カンボジアの歴史をおさらいしてみるのも悪くはないだろう。というわけで、出発前にドロナワ勉強したカンボジアの歴史。

 アンコール王朝以前のカンボジアには、扶南、真蝋という国家があった。どちらもインドの影響を受けたヒンズー教国家だったらしい。真蝋の時代に、破壊神シヴァと創造神ヴィシュヌを合体させた、ハリハラ神が独自に発明され、信仰されていた。諸星大二郎「孔子暗黒伝」に出てくるアレですな。

 いわゆるアンコール王朝は、真蝋が分裂したかたわれから発展した国家で、9世紀ごろに現在のカンボジア領土をほぼ統一した。
 アンコール王朝の全盛期は12世紀から13世紀。日本史でいうと、平家の勃興から源実朝の暗殺の時期にあたる。

 この時代は有名な2人の王様に統治された。これ試験に出るから、みんな暗記しておくように。
 スールヤヴァルマン2世はアンコールワットを建設した。さらに領土をベトナム南部、ラオス、タイ東部まで拡張し、インドシナ半島をほぼ全土手に入れたのみならず、マレー半島の北半分までを版図とした。
 ジャヤヴァルマン7世は城塞都市アンコールトム、象のテラス、ライ王のテラス、バイヨン寺院、タプロム寺院等を建設した。本人は仏教徒だが、国家としては王を神とするヒンズー教体制だったらしい。ややこしいことである。

 アンコール王朝がこれほど膨大な寺院神殿を建築し、数多くの戦いに勝ったのは、治水による生産力増大が理由だとされる。
 アンコール王朝以前、そしてアンコール王朝以降、現在に至るまで、カンボジアの農業はメコン川とトンレサップ湖に頼りきっていた。
 雨期に増水したメコン川と、メコン川から逆流してトンレサップ湖にあふれた水は、沿岸の平地をうるおし、水分と養分に富んだ土砂を堆積させる。
 農民はそこにモミを蒔くだけで、労せずしてコメが取れるという寸法である。水路も肥料も田植えもいらない。
 アンコール王朝は、トンレサップ湖とトンレサップ川ぞいに水路とため池を掘り、川や湖から離れた土地にも水をゆきわたらせ、耕地面積を飛躍的に増大させた。

 ちなみに、はるか後世のポル・ポト政権も、アンコール王朝にならって各地に水路を掘ったが、なにも考えず深く掘りすぎたため、水路には水が満ちるが、その水が田んぼまで流れないというていたらくとなった。
 ポル・ポトがアホなのか、アンコール王朝が優秀すぎたのか、評価に困るところである。

 そんなアンコール王朝が没落したのは、東にシャム、西にベトナムという好戦的な国家にはさまれ、戦乱が絶えなかったこともあるが、内乱も重要な要因だった。
 なにしろカンボジアの王室は、いまに至るまで、王位継承の確固たるルールが決まっていないのである。
 だから王が死んだあとには息子だの弟だの甥だの母方のいとこだの臣下だった妹婿だのがおのおの勝手に王位にチャレンジし、必ず後継者争いが起こる。
 アンコール王朝全盛期の偉大なる王、スールヤヴァルマン2世、ジャヤヴァルマン7世の死後も例外ではない。スールヤヴァルマン2世死後は30年の戦乱をジャヤヴァルマン7世がおさめたからいいものの、ジャヤヴァルマン7世死後の混乱は誰もまとめる力量がなく、王朝は衰退した。
 アンコールはシャムに占領され、王朝はプノンペンに転進、もとい遷都した。

 王朝の衰退とともにため池や水路も放置され、土砂が堆積して水が通らなくなり、生産力は落ちて兵士を雇う金もなくなり、シャムに負けチャンパに負けビルマに負けベトナムに負け、カンボジアはもとの貧乏国に戻ってしまいましたとさ。どっとはらい。

 プノンペンに遷都して以降のカンボジアの歴史には見るべきものはない。18世紀に西欧が植民地化をすすめなければ、たぶん、カンボジアはタイとベトナムに侵略され、無くなってしまったのではないだろうか。植民地化による旧国家領土の凍結は、カンボジアにとっては幸いだった。
 ともあれ、カンボジア衰退の歴史の中でただひとり、妙な記録で記憶に残る王がいる。
 日本でいえば江戸中期ごろの王様、チュイ・チュッタ3世は、2王朝の王位争いにビルマ、シャム、ベトナムの外国勢力がそれぞれ都合のいい側を応援するという、日本の幕末のような複雑怪奇な情勢の中で、実に3度即位し、4度譲位する(うち譲位2回は息子に、即位1回は息子から)という、たぶん世界記録を樹立し、カンボジアで4人目に有名な王様として名を残している。3人目に有名なのはシアヌークな。
 なお、即位と譲位の回数が合わない気がするが、なにせ「カンボジア」(ジャン・デルヴェール:文庫クセジュ)でそう書いているから仕方がない。

 余談が過ぎた。

 

 ホテルの朝食はアジアンと洋風の折衷。パンとハムソーセージベーコン卵、粥とフォー、野菜炒めや厚揚げの煮物など。それからフルーツ。
 フルーツは乾期のため多くは季節はずれだが、ベトナムでもカンボジアでも、スイカ、パイナップル、モンキーバナナだけは美味しかった。パイナップルは甘酸っぱくてサクサクしている。スイカは日本の小玉よりも小さい食べきりサイズ。日本でもこのサイズを栽培すればいいのになあ。少子化家庭にはぴったりの大きさなのに。

朝食 朝の裏通り

 8時にマイクロバスに乗りこむ。あと2軒のホテルを周り、総勢12名で遺跡に出発。遺跡へは大型バスだと通れない細い道などあるので、マイクロバスの方が便利なのだそうだ。

 トンレサップの街はさすが観光地という感じで、どこもかしこも舗装と街路樹とライトアップで飾られているが、バスで10分も走ると舗装が切れ、黄色い砂埃を猛然とかきたてながらバスは走る。乾期だからねえ。

 アンコール遺跡群に入場するには、チケットを入手しなければならぬ。バスを降りてチケットセンターに並ぶ。窓口のCCDカメラで写真を撮影し、出口で3日間有効の写真入りチケットを受け取る。
 このツアーではチケットも料金に含まれていたが、1日パスが20ドル、3日パスが40ドル、1週間パスが60ドルとのこと。

 午前中は逆光になるので、アンコールワット見学は午後にしますとのことで、まず降りたのはアンコールトム。ジャヤヴァルマン7世が築いた城塞王宮である。
 南大門だけ見てすぐバスに乗り(なにしろ城塞都市なので、門から中心地まで1キロ以上ある)移動。

南大門前の行列像 南大門

 パプーオン(隠し子)という名前の寺院。なんでも王妃が殺されかけた子供をこの寺に託したという、グリム童話か一休さんかというような伝説があるそうな。
 そのそばには、ピメナカス(天空の城)という名前の寺院。センヒャクさんは「ここ、ラピュタのモデルね」と言っていたが、どこまで信じていいのやら。
 アンコールトムの領域は広いので、私らのようにバスでところどころ移動する人もいれば、象をチャーターしてのんびりとめぐる人もいる。

どっちだったか忘れた 象は近くで見ると意外に剛毛

 バイヨン寺院は回廊構造になっていて、ぐるりに浮き彫りが施されている。ジャヤヴァルマン7世がシャム人やチャンパ人と闘って勝った記録画や、当時の日常生活が描かれている。夫婦生活も描いている。バイヨンの妻。
 寺院の随所に天女のアプサラダンスの浮き彫りがある。いや、アプサラって天女って意味だから、これじゃ馬から落ちて落馬か。
 回廊を抜けると本尊が納められていた仏塔が建っている。

アプサラダンス 本尊

 象のテラスとライ王のテラス。ライとは現在でいうところのハンセン氏病のこと。
 建造したジャヤヴァルマン7世が光明皇后のような施療院を設立したことと、バイヨン寺院の浮き彫りにある王家の肖像を見たフランス人医師が肖像の人物をハンセン氏病と診断したこと、また発見されたときのテラスがコケに覆われていて、まるでハンセン氏病末期患者のように見えたことなどが合わさって、ジャヤヴァルマン7世=ライ病患者だったという説が立ち、そういう命名をされてしまったのだが、現在この説は否定されている。

象のテラス ライ王のテラス

 バイヨン寺院の仏像はやたらに首が落ちたり浮き彫りが削れたりしているが、おもに3つの原因があるそうだ。
 第1は長い歳月による自然崩落。第2は、ヒンズー教徒による廃仏毀釈。第3は19世紀以降、盗賊が仏像や仏頭、神像やレリーフを盗んで骨董品としてヤミで売りさばくため。
 意外にも、あのポル・ポト政権はアンコール遺跡の破壊には、ほとんど関与していない。ポル・ポトはアンコール王朝の版図をカンボジアに取り戻すことを理想としていたため、アンコール遺跡は国威発揚のシンボルとして手をつけなかった。まあ、その代わりに他の仏教寺院は破壊しまくり、すべからくすべての僧侶はムダメシ食いとして殺しまくったわけだが。

 トイレの前に犬が寝そべっていたので、昨晩のように撫でようと手を伸ばしたら、係員にものすごい勢いで制止された。狂犬病があるので絶対に手を出してはならないとのこと。
 ううむ、そんなわけで犬はいつも人のいる涼しい場所から追い出されて、炎天下でいつも舌を出してバテているのか。犬は辛いなあ。

バイヨンの犬

 バイヨンからバスで移動し、タプロム寺院へ。通り道には地雷で足をなくした男たちが楽器を演奏している。ふたむかしくらい前の日本の傷痍軍人さんみたいだ。
 帰国してから知人に聞いたのだが、これは喜捨を求めるとともにCDも売っているのだとか。
 1ドルでCDを買った知人は、帰国してからパソコンで確認したところ、中身がからっぽの生CDだと判明したそうだ。せめてなにか入れてくれ。オレがむかし通信販売で買った無修正エロビデオは、申し訳程度に2分ぐらいテレビの水着シーンが録画されていたぞ。

 タプロムは建築物よりも、それを破壊するガジュマルの木の方が有名。ガジュマルといえば沖縄にもあって、たしかキジムナーという妖怪だか妖精だかが住んでいるはずだが、ここにもいるのだろうか。
 まあ、破壊してるのは植物だけじゃない。壁にやたら穴があいているのが不思議だったが、かつては宝玉が埋め込まれていたのだが、フランス人が発見する前から存在を知っていた地元住民の手で、すっかりくり抜かれてしまっていたという。

タプロム遺跡 孔だらけ

 午前中の観光はこれで終わり。バスでシェムリアップ市街まで戻り、昼食前にサチコの店へ。といっても、幸せを数えたら片手にさえ余る人ではない。暗い酒場の片隅で俺はいまでもお前の名前を呼んでいる人でもない。
 まっとうな日本人女性で、単身シェムリアップに移住して、カンボジア人のために、カンボジア人と共に生きることを選択し、完全無農薬カンボジア素材100%のクッキーを作っている人です。サチコ思い通りにサチコ生きてごらん冷たい風に。いや風は暑苦しいけど。
 母親がクッキーや黒砂糖を知人のみやげに買うのを横目に、私は安心素材のマンゴーアイスかき氷を食らう。Sサイズで3ドル。いや、ちゃんと母親にも分けましたってば。Sサイズとはいえけっこう大盛りだし。

サチコの店 マンゴーアイスかき氷

 昼食は、New Bayanというカンボジア料理店。
 フォー、薩摩揚げみたいなもの、野菜炒め、竹の葉で包んで蒸したカンボジア風茶碗蒸しなど出て、最後のデザートはカンボジア名物カボチャプリン。まあ、カンボジアというくらいですから。
 しかしカボチャプリンは、思ったよりプリン側よりカボチャ側に寄った味で、私的にはスルーしたいところかな。
 例によって飲み物は別。アンコールビール2.5ドル。3ドル出したら千リエル札が2枚返ってきた。滞在2日目にして、はじめてカンボジアの通貨を見た。

 酷暑の中で過ごすにはシエスタが必須、というわけで、ホテルに戻り、1時間ほど休憩。さすがにこの間に、外に出て屋台へ、という元気はなかった。

 午後はいよいよアンコールワット。
 池の中の橋を渡り、門をくぐると少女がいて、その先におなじみのアンコールワットの塔が見える。
 現在、第3回廊は修復工事中で、入場が規制されている。

アンコールワット入り口 アンコールワットの少女 アンコールワット全景

 アンコールワットはとにかくなんとも多数の壁画にとりかこまれるので、第3回廊が工事中なくらいでちょうどいいってくらいにぐるぐると壁画を見て回る。もちろん壁画だけじゃなくアプサラのレリーフもある。
 みんながおっぱいを触りまくったために、おっぱいだけ黒ずんでしまっている天女もいた。おっぱいは全世界の共通言語。

アンコール壁画 アプサラおっぱい

 さすがにこれだけ巨大で壮大だと、みんな疲れるらしく、あちこちで休んでいる人がいる。
 父親が休んでいるあいだに葉巻をいじっているおませさんとか。
 なんかヤバい積み方をした石の下で呑気に休んでいる観光客とか。

葉巻幼女 石積みおかしい

 さすがアンコールワット、おおざっぱにひとめぐりしただけで時間は過ぎ、早や日は西に傾きつつある。
 夕方からサンセット見学ということで、急いでバス移動。プノンバケンの丘という場所へ。プノンはプノンペンと同じで、「丘」という意味だから、「プノンバケンの丘」では「天女のアプサラダンス」になってしまうのか。
 ここからアンコールワットに落ちる夕陽が撮影できるというスポットのため、大量の観光客が日暮れ前から大挙しておしかけている。
 遺跡までの山道も遺跡の階段もけっこう急なため、私たちのツアーは完全に日が落ちる前に撤収。

プノンバケン アンコールの夕陽

 夕食はアプサラダンスショーを見ながらのビュッフェ。生春巻、揚げ春巻、野菜炒め、チャーハン等の料理と、フルーツ、チェー(ベトナム風ぜんざい)、タピオカの甘い粥などなど。
 アプサラダンスはカンボジアの伝統芸能だが、これもポル・ポトの時代に無用の民としてトップスターは皆殺しにされ、無名の若手や練習生がかろうじて「野菜を売ってました」などと前歴を偽って生きのびたのだそうだ。
 フン・セン首相の時代になって、かつての踊り子を集め、新人を育成しようとしたのだが、教える側もまだ教わっていた最中だったので、えらく苦労をして、ようやく最近になって、このように人前で演じられるようになったという。
 日本にたとえるなら、落語協会、芸術協会、上方落語協会所属の落語家がすべて虐殺され、ドサ回りをしていたためかろうじて虐殺をまぬがれた圓楽党の鳳楽が三遊亭圓生の大名跡を嗣ぐような非常事態だったわけだ。
 ところでなんで日本は、虐殺もないのに非常事態になってるんでしょうね。

ハヌマーン アプサラダンス

2月27日(土)
 今度はアンコールワットから昇る朝日を見物するということで、4時半に起こされ、5時に集合。バスに乗り込み、まだ暗いうちからアンコールワットへ。
 同じような狙いの観光客でもう遺跡内部の沼の岸辺は満杯。よほどみんなの心がけがよかったのか、曇りもせず日は昇ってくれた。
 まあこの季節、曇る方が珍しいんだけどね。

日の出を待つ客 アンコールの日の出

 このあと宿に帰ってもうひと寝入り、と個人旅行なら絶対になるんだが、そうはいかないツアーの厳しさ、朝飯を食って8時半にはまた集合し、最後の遺跡見物へ出発。
 今日はシェムリアップの街からやや遠い遺跡ということで、小一時間バスに乗る。
 途中に小学校の建物もあり、白いシャツの制服を着た子供が集まっていた。
 カンボジアでは70年代後半のポル・ポト時代と、90年代前半までの援助ストップ時代(ベトナムの軍事援助を受けてポルポト軍を打倒し、成立したヘンサムリン政権をアメリカや日本は承認せず、シアヌーク・ポルポト・ロンノル残党の負け犬3派連合ゲリラ政権を承認していたため、外国からの援助が途切れていた)をまだ引きずっており、児童数に比べて学校の数が足りない。そのため小学校は午前中授業の生徒と、午後授業生徒に分け、2部制授業を行っている。
 どの遺跡でも子供が物売りに励み、おまえら学校行っとんのかと思っていたら、そういう事情だったのか。
 まあ、カンボジアはまだ義務教育ないから、たぶん学校行かず一日中物売りしてる子供も多いんだろうけどね。

 スラスラン。センヒャクさんの言うところの「世界最大のお風呂」。
 まあ、お湯を入れるわけでなく沐浴なんですが。
 建造したのはジャヤヴァルマン7世だそうだが、ガンジスの沐浴と同じことがしたかったのなら、トンレサップ川で水浴してもいいような気がするんだが。いや、あの王は仏教徒だったか。まあ仏教でも沐浴はするし、ひょっとしたらバライ(ため池)を作るついでにこれも作った、という程度の軽い気持ちなのかも。
 ちなみにカンボジアのバライ(ため池)は普通のため池のように地面を掘るのではなく、平地に堤を築いて雨水がたまるようにした造り。底が平地と同じ高さだから、農地へ水が流れる。ポル・ポト政府は掘ってしまったので、せっかくたまった水が農地に流れず、バケツで掻きだしたとかアホなことをやってくれたらしい。バケツリレーをやらされた農民にとってみれば、笑いごとじゃないだろうが。

トンレサップの朝の風景 スラスラン

 プレループはアンコールワットの時代以前の、古い遺跡なのだそうだ。
 アンコール王朝全盛期のアンコールワットやアンコールトムなどは、ラテライトという自然の煉瓦で礎石をつくり、建造物は砂岩で建て、それに彫刻やレリーフを施している。その時代より前のプレループでは、礎石は同じラテライトだが、砂岩を使用するに至っておらず、赤煉瓦で建造物を作っている。だから彫刻はなし。
 砂岩に比べて赤煉瓦は土壌としても優秀なのか、この遺跡のあちこちからイネ科植物が生い繁っている。そのうち煉瓦が崩壊して土に還るんじゃあるまいか。まあ、それも大自然のいとなみのひとつ、仏教で言うところの無、ヒンズー教でいうところの輪廻の教えか。

プレループ 赤煉瓦と植物

 バンテアイ・サムレとバンテアイ・スレイ。どちらも「砦」を意味するカンボジア語、バンテアイから来ているらしい。
 バンテアイ・サムレは「サムレイ族の砦」という意味だそうだ。これこれ、そこで「サムレイ族→サムライ族→侍→12世紀→南の島に逃げたという鎮西八郎源為朝はカンボジアで王になっていたんだよ!」などというトンデモ理論を組み立てないように。
 サムレイ族の若者が神から胡瓜の種をもらい、植えたら素晴らしい胡瓜が実った。それを盗み食いに来た王は見張っていた若者に矢で射殺され、若者は王になってこの砦を建てたという伝説が残っているとか。これこれ、そこで「胡瓜=木瓜とは荒ぶる神スサノオを祀った八坂神社の紋章→同じく「荒ぶる神」である鎮西八郎が紋章を受け継いでも不思議じゃない→源為朝は弓矢の無双→アンコールの王くらい射殺すのはわけもなかったんだよ!」とトンデモ理論を増強しないように。

サムレの幼女 バンテアイ・サムレ

 バンテアイ・スレイは「女の砦」という意味で、赤色砂岩を使って全体的に艶っぽい雰囲気が女を連想させるからだとか、有名な女神像のレリーフがあるからだとか言われている。こちらのほうが有名らしく、観光客が多い。
 中心の三塔にブラフマン、シヴァ、ヴィシュヌのヒンズー三大神を祀っている。もっとも三大神の像はなくなっているらしく、塔の中を見ることはできない。その代わり側面にデヴァター(女神)のレリーフがあり、これが「東洋のモナリザ」と呼ばれて有名。
 センヒャクさんが「ここから見ると、窓を通して女神様が覗けます」というので、全員扉の窓ごしに女神をチラ見する。なんとなく背徳的な気分。甲子園でいうところのヒヤチラみたいなものか。

パンテアイ・スレイ 窓越しのモナリザ

 ところでこの遺跡では痛恨事があった。
 常々、寄ってくる物売りから物を買うことはすまい、と思っていたのだが、バンテアイ・サムレの前で「ガイドブック」という少女の声に、つい耳を傾けてしまったのだ。別に少女だから聞いたのではない。アンコール遺跡について書いた本なら欲しい。写真集ならなおのこと。まして日本語解説がついてればラッキー。
 そんなわけで「10ドル」とかふっかけてきやがる小娘に、甘い、甘いな、お前はカンボジアから出たことのない箱入り娘だろう、このオレ様、世界十数カ国を股にかけ、そのことごとくの土地で道に迷ったり拉致されたりボッタくられたりカツアゲされたり掏られたり色香に迷ったり騙されたり嘘を教えられたりポン引きに道を聞いたりしてきた百戦錬磨のこのオレ様に言い値で売りつけようとは7000万年早い、とあしらいながら、徐々に値切り工作を進め、ついに4ドルに値切ることに成功したのだ。
 やった、オレ様ってば買い物上手、倹約生活、賢いまっだーむなどと浮かれていると、次のバンテアイ・スレイでガキが何も言わないうちに「ガイドブックに絵葉書つけて1ドルでどうか」と売りにきた。
 ……まあしかしなんだよ、1ドルって。4ドルの時点で海賊版確実だけど、1ドルって。紙代が出るのか。他人事ながら心配だぞ。写真家にカネ払ってないだろ。解説文書いた人にもカネ払ってないだろ。なにせ1ドルだもんなあ。
 ……1ドルって。……値切る余地もなく1ドルって。……1ドルって。

 またもぼったくられた男の傷心を抱きながら、バスはシェムリアップの街へと戻る。
 昼食はTARA ANGKOR HOTEL内にあるタイ料理店。さすがに一流ホテルらしく、サービスは良かった。メニューはソムタム、ラープ・ムー、グリーンカレーなど。
 ソムタム、ラープ・ムー、グリーンカレーといえばトムヤムクンと並んでタイの辛い料理四天王の一角なのだが、拍子抜けするくらいマイルドな味だった。観光客向けというわけではなく、カンボジアのタイ料理は、辛さを抑えているらしい。

ラープ・ムー グリーンカレー ライスと小鉢

 食後、1時半にホテルに戻る。3時15分の集合まで自由時間とのこと。ううむ、荷物整理の時間を入れると、1時間ちょっとだ。これではとても、遠いプサー・ルー・マーケットには行く時間がないなあ。地元民が地元食材や地元雑貨や地元衣類を扱う市場ということで、ちょっと行ってみたかったんだが。変なお菓子とか変な食材とか変な日本語のTシャツとか捜しに。
 やむなく、歩いて5分のオールド・マーケットに、母親を連れて出かける。
 土産物やTシャツなどの商店が並ぶ細い路地を通り抜けると、中心に生鮮市場がある。
 午後になると肉や魚といった生鮮食品はほぼ終わりかけで、観光客に売れる果物だけ豊富に並んでいた。あとは乾物、干物、調味料系の食品と土産物全般。
 木の仏像やガネーシャ像など並べている店であれこれ物色していたら、若い店員が寄ってきた。
 ハリハラ神像はないかと店員に聞いてみたら、イエスと叫んだきり飛ぶように去っていった。
 それきり、なかなか帰ってこない。
 ひょっとすると本当に逃げたんじゃないか。ひょっとするとあの青年は敬虔なキリスト教徒で、邪神の名前を聞いたため救世主の名前を叫んで逃げたんじゃないのかと思いはじめたころ、大きなブロンズ像を抱えて戻ってきた。
 いやいや、こんな立派なブロンズ像はいらない。私はほんのちっぽけな木彫りでよいのだ。そう言っても青年は、「ハリハラはこれしかない。いいものだ。お買い得。安くする」としか答えない。
 やむなくでかいブロンズ像を購入。ハンモックをおまけにつけたりして65ドルだったかな。
 母親は竹のシンプルなランチョンマットとカンボジア語Tシャツを購入。ランチョンマットは4つひと組のを3セットくらい買って箸をおまけにして20ドルだったっけ。Tシャツは2枚で4ドルかな。
 なにしろ暑いのと急いでいたので、ろくに値段も覚えていないしメモも取らなかったのだよ。

 しかし今になって考えたら、あの店頭にぶらさがってるソーセージと干魚、買っとけばよかったかな。

オールドマーケット オールドマーケット通路 ハリ・ハラ神像

 ここで読者のみなさまに、残念なお知らせを告知しなければなりません。
 今回、私がカンボジア旅行をした目的は、第二には遺跡を見たいというのがあったのですが、第一は「カンボジアでは蜘蛛が食える」という情報があったからです。
 蜘蛛といえば、「チョコレートの味がする」と言われていることが有名です。特に唐揚げにすると、外はかりかりで中とろーり、まるでトリュフチョコレートのようだとのこと。
 その有名な食材、蜘蛛を、ぜひぜひ、食べてみたい、食べてみなさまにご報告したい、その一念でカンボジアを訪れました。皆様もこの旅行記を、ここまでその一念でお読みになっていたことでしょう。
 しかし、オールドマーケットをくまなく探したのですが、蜘蛛はおろか、虫がまったく見あたりませんでした。
 観光客向けの店が大半のオールド・マーケットではなく、地元住民向けのプサー・ルー・マーケットに行けば、あるいはあったかもしれませんが、その時間がなかった。
 まことに申し訳ない。特にワタルさんと大西さんには、謝る言葉もありません。
 せめてこちらの別サイトの写真を見て、無聊を慰めてください。
「写真素材〜食用クモ唐揚げ」
「海外旅行必需品・持ち物リスト」より「蜘蛛の唐揚げ」
「金森先生のカンボジア日記」より「昆虫食とクモなど」
「カンボジア食べ歩記2008」より「蜘蛛の唐揚げ」

 蜘蛛に心を残しつつ、慌てて荷造りし、シャワーだけ浴びてかろうじて集合時間に間に合わせる。
 3時15分にホテルを出て、3時半には空港に着いてしまった。チェックインして空港使用料50ドル(ひとり25ドル)を払って中にはいると、5時過ぎまでなにもすることはない。
 シェムリアップの空港はひとつの待合室しかない。土産物屋をぐるっと回って、本屋でよくわからんシアヌークの演説集みたいなCDを買って、酒屋のへんな日本語を見て、それでもあと1時間以上ある。またポメラが役に立った。
 飛行機はカンボジア航空とベトナム航空の共同運航便で、エアバスA321という型。チケットを渡してゲートから出たらいきなり屋外。バスが来るのかと思ったら、歩いて飛行機まで移動するとのこと。

クメールワイン 飛行機へ

 飛行機に液晶テレビもヘッドホンもないのはまあいいとして、離陸してしばらくすると白煙が窓の上からもくもくと立ちのぼってきたのには驚いた。気密が甘いのだろうか。でも乗務員は平然としている。まあいいのか。
 ホーチミンまで1時間ちょっとしかないが、それでも軽食が出た。スパムサンドイッチと水だけの、ホントに軽食だった。

白煙噴き出す カンボジア航空の軽食

 7時ごろホーチミン空港に到着。ガイドのタオさんが待っていた。道と書くのだろうか。
 バスでホーチミン中心部の裏通りっぽいLe Golden Bleuというフランス料理屋へ直行。フランス料理なのに、なぜかイタリアかスペイン風の楽士が日本の軍歌を演奏しているという、けったいな店。ポタージュスープ、ソーセージのソテー、蟹の甲羅詰めグラタンなどのコース料理に、苺のシャーベットのデザート。
 飲み物は例によって別料金。グラスワインが6.5ドルだった。

ソーセージのソテー 蟹の甲羅詰めグラタン イチゴのシャーベット

 ちなみにこの店は1ドル=1万8千ドンの換算。これまでのレストランや土産物屋ではじめて、現地通貨で払った方が有利な店だった。
 ドルで払った人の中には、お釣りが足りなかったと怒っていた人がいた。ドリンク2.5ドルで3ドルを払い、お釣りが9千ドン返ってくるはずなのに、7千ドンしか返ってこないと言っている。お釣りを見せてもらうと、千ドン札が7枚と硬貨一枚。ベトナムには硬貨はなかったはずなのだが。
 その硬貨をよく見ると、額面が2千ドン。紙幣より高価な硬貨か。こりゃ、日本人にはわけわからんわ。

 あとで調べたのだが、ベトナムで硬貨が導入されたのは、10万ドン以上の高額紙幣がスカシの入ったプラスチック混入素材になった2003年と同時のこと。硬貨は2百ドンから5千ドンまで5種類。
 ただし、紙幣に慣れたベトナム人にとって硬貨は保管しにくく、自販機がないので持っているメリットがないので嫌われているらしい。自分に回ってきたら、できるだけ事情を知らない外国人観光客に押しつけようとするのだとか。
 しかし、紙幣と硬貨で同額のを流通させるってのは、政府の方針がよくわからん。低額紙幣を硬貨に移行しようとして失敗したのだろうか。
 まあ考えてみれば、日本でも、5百円札は使用可能なので、5百円だけは硬貨と紙幣が流通していると言えるわけだが、まあ、岩倉さんを実際に使用する人は事実上皆無だわなあ。

 夕食後は各自ホテルで解散。私たちのホテルはアジアンホテル。レックスホテルに近い、ホーチミン中心部のドンコイ通りに面している。やや古びて部屋は狭いが、テレビの番組数はこれまででいちばん多い。もっとも日本語の放送局はなかったが。
 ホテルを出て、ひとつ向こうの通り、ハイバーチュン通りにあるという、ビアサイゴン直営のビアホールがあるという場所に行ったのだが、そんな店は影も形もない。そもそも呑み屋らしき店はない。いや道に迷ったはずはない。たしかにハイバーチュン通りなんだけどなあ。
 やむなくコンビニで水とジュースとビールを買って部屋に戻って飲む。どうでもいいけど、ハイバーチュン通りのコンビニ2軒は、どっちもレジ前にデブがいたら通り抜けられないほど狭い。のんびり物色してると、他の人に迷惑がかかるので、さっさと出る。ううむ、あの狭さは、土地代が高いせいなのだろうか。

アジアンホテル 虎が勝ちますように


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