那須塩原・格安温泉紀行

温泉宿の分類学

 よく新聞などで、選挙の候補者を、「原発推進か撤廃か」のタテ軸、「前知事の政治路線に賛成か反対か」のヨコ軸の上にプロットして二次元的に図示することがある。
 これと同じように、温泉宿もふたつの軸で評価することが可能である。
 高と安の軸、聖と俗の軸である。

「高くて聖」の温泉宿とはいかなるものか。
 いわゆる格式高い温泉旅館というものである。
 たいがい、その温泉の最初の旅館で、昔は庄屋の屋敷か大名の泊まる本陣であったりする。
 間違ってもツアーの団体客が宿泊したりはしない。というかできない。部屋数はふつう10内外、多くても30まで。
 宿の戸を開くと、広い玄関口で、和服のおかみが「いらっしゃいませ」と三つ指立てて出迎えてくれるような宿である。
 やはり和服姿の女中に案内されて、「桔梗の間」「あやめの間」などと看板のある部屋に入り、浴衣に着替えてくつろいでいると、ハッピ姿の男衆が、「湯の準備ができましたが、いかがいたしますか」と聞きにくる。
 男衆の案内で露天風呂につかって戻ってくると、部屋にはすでに御膳が据えられている。
 その地で穫れた山菜や川魚、あるいは近くの港で水揚げされた魚介など、その地の特産物を吟味して宿の板前が腕をふるった心尽くしの料理である。
 女中のお酌で地酒を飲みながら山菜天ぷらや刺身を賞味しつつ、外の雪景色を鑑賞する、といったような宿である。1泊の料金は安くて3万、といったところだろうか。

「安くて聖」とはいかなるものか。
 これはつげ義春が愛好し、しばしば漫画に描いていたような鉱泉宿、湯治宿、商人宿が代表例である。
 山奥の細い脇街道に面した、軒も傾きそうな民家。それを一部改造して客を泊めている。むろん、ツアーの団体客などは間違っても来ない。宿が提供するのは部屋と布団と温泉のみ。浴衣やタオルは、すべて客が自前で準備し調達する。
 長期宿泊客の多くは自炊。料理を注文しても、出るのはうどんや丼のようなごく手軽なもの、あるいはウインナーやハンバーグのようなごく日常的なものである。酒は客が勝手に持ち込んだウイスキー。これを洗面所のプラスチックコップに注いで水道水で割って飲む。
 1泊の料金は2千円から5千円、くらいだろうか。

「高くて俗」とはいかなるものか。
 いわゆる観光ホテルである。
 伊東に行くならハトヤ、有馬兵衛の向陽閣、などCMでおなじみの宿が多い。
 これはツアーの団体客が圧倒的多数を占める。
 このたぐいの宿の特徴として、「大」という言葉を異様に好む。「360度パノラマが楽しめる大展望風呂」「2千人が同時に会食可能な大宴会場」「世界各国の踊りを楽しむ大レビューショー」などなど。ホテルの名称にも大をつけたいのだが、かといって「大温泉大ホテル」では松本零二になってしまうため、やむなく「グランドホテル」で手を打つ。なかには黄金風呂、牛乳風呂など「豪奢」を強調するアイテムもある。
 団体観光客は観光バスを連ねて大駐車場からいっせいにホテルに入り、いっせいに大展望風呂で大浴槽につかり、浴衣姿でタオルをひっかけて大宴会場で夕食を食う。食材に地理的な変異はない。舟盛りのインド洋まぐろ、養殖ハマチ、アラスカ甘エビなどの刺身、オージービーフの陶板ステーキなど、とにかく「豪勢」で「高価」に見えそうなものならなんでもいい。酒は全国的メーカーの作るドライビール。
 ビールでほろ酔い状態で2階の大演芸場に移動し、大レビューショーを見学。そのままサンダルをつっかけて歓楽街になだれこむ。歓楽街で楽しむのは射的、お座敷ストリップ、温泉芸者などの温泉歓楽街定番コースである。宿に戻ってマッサージを呼ぶのも定番である。
 1泊の料金は1万円台か2万円くらいだが、歓楽街やマッサージのオプションも込みで3万円を突破する、意外と高くつく宿である。

「安くて俗」はどうだろうか。
 実はそれこそ、私がこれから行く伊東園ホテル塩原なのである。これまでは全部前フリ。長くてごめん。

 「安くて俗」の領域では目下、大江戸グループと伊東園グループが覇権をかけて争っている、と聞く。
 大江戸グループはお台場にある大江戸温泉物語という銭湯が余勢を駆って、2007年より関東中心に繰り広げた23店舗の観光ホテルチェーンである。AKB48を起用して盛んにCM戦略を繰り広げている。
 伊東園グループはカラオケ歌広場の親会社が展開するホテルチェーン。知名度では大江戸グループに劣るが、ホテルは43店舗、展開は2001年からと、規模と歴史では勝っている。
 この2グループ、いろいろと似たところがある。
 どちらのホテルも、新規建築ではない。企業の保養所やかんぽの宿、あるいは「高くて俗」の観光ホテルだったのだが経営破綻したところ、などを買い取って改装している。
 1泊の最安値は2014年の時点では7800円と、どちらも共通している。ただし大江戸グループでは休前日や年末年始、2人客以下だとそれより高くなるが、伊東園グループは365日同一価格を売りにしている。
 新宿や池袋からホテル直通の格安送迎バスがあることも共通している。
 夕食はどちらも同じバイキング。これに地域や季節により、ズワイガニや寿司などのオプションがついたり、飲み放題もついたりする。
 あともうひとつ、おおるりグループというのがあって、これは伊東園よりもさらに格安の5500円を売りにしている。

 塩原温泉郷でも、伊東園グループの伊東園ホテル塩原と、大江戸グループのホテルニュー塩原、そしておおるりグループのホテルおおるりが似たようなサービスでしのぎを削っている。
 ちなみに2014年1月23日(木)現在の格安3ホテルの料金を比較してみよう。
 2人で1部屋、夕食バイキングと飲み放題、首都圏からの送迎バスを含めた料金は、
 ホテルニュー塩原 1泊料金9,800円+入湯税150円+送迎バス1,000円=10,950円
 伊東園ホテル塩原 1泊料金7,800円+入湯税150円+送迎バス無料  = 7,950円
 ホテルおおるり  1泊料金5,500円+入湯税150円+送迎バス1,000円= 6,650円
 けっこう価格差はあるが、ホテルの設備やサービスでは大差ないとのことだ。
 価格差はもっぱら夕食バイキングの質に反映するらしい。
 なんにせよ中庸は美徳、ということで、私は伊東園ホテル塩原を予約した。
 つか、ホテルニュー塩原だとばかり思って予約したんだけどね。

そして……塩原

 集合は8時45分とのことだったので、池袋西口に40分ごろ行ってみた。
 道路沿いにいくつかバスが止まっている。伊東園系ホテルの鬼怒川方面、塩原おおるりホテル方面、ホテルニュー塩原方面、さまざまだが、どれも伊東園ホテル塩原ではない。ないったら。
 鬼怒川方面に行く伊東園のバス運転手に聞いてみたら、むこうに止まってるマイクロバスがそうじゃないかとのこと。
 行ってみたら運転手が乗客の確認中。なんと24人乗りのマイクロバスに、乗客は私たち含めて5人だけということ。
 座席は狭いが一列3席をひとりで占有できるので楽は楽だ。
 バスは集合時刻の8時45分には出発。途中、王子駅でもうひとり乗客を拾う。乗客は私と母親の2人、おばさん2人組、ひとり客のじいさんが2組。
 ひとり客が多いのは、伊東園のみひとりでも2人客と同じ料金だからだと思われる。大江戸だと2人1室から、おおるりだと1人客は千円割高になるからねえ。

 途中、佐野SAでトイレ休憩し、11時半には宿に到着。
 前の客がいなかったおかげで、すぐに部屋に入れた。温泉は掃除中なので2時から使用とのこと。
 ホテルの外観もけっこう綺麗だし(ちょっとラブホっぽいけど)部屋も狭いながら洗面台とウォシュレットトイレが付属、ちゃんと外の風景が見れる別室もある。
 格安料金にするために徹底的に人件費を節約してるところが随所にあって面白い。
 まず部屋への案内はしない。フロントでキーを渡しホテル内地図をチェックして渡すのみ。
 部屋にはすでに布団が敷いてあるから、あとで布団を敷きに来る必要はない。
 冷蔵庫は空っぽ。これでチェックアウト時に冷蔵庫をチェックしに来る必要がない。
 タオルと浴衣の帯とドテラは部屋にあるが、浴衣はフロントの横にあるのをサイズで選んで持参する。

伊東園ホテル塩原 ホテル居室

スープ焼きそばの世界

 とりあえず昼飯を食いに外出する。
 外はそんなに低温ではないが、風が強い。
 しばらく前に雪が降ったらしく、日陰にはガリガリの雪が残っている。
 塩原のメインロードのはずだが、まるで人影がない。
 車はときどき通るが、バスか業務用のトラック、もしくは宿か商店のマイクロバス。
 店もほとんど閉まっている。空いてるのは土産物屋の3割、飲食店の5割、宿の10割といったところだろうか。
 ときどき通るバスも乗客がまるでいない。
 そんな中、スープ焼きそばの名店で知られる「釜彦」だけは、さすがに車が数台止まっていた。
 店の中には客が10人弱、ざっと5割の入りってとこか。まあ12時の飯時とはいえ、平日だからなあ。

釜彦 メニュー

 スープ焼きそばとソースカツ丼、あと地ビールを注文する。
 地ビールはブラウンエール系のしっかりした味。
 ソースカツ丼はどんぶりからはみ出しそうなトンカツが肉厚でなおかつ柔らかく、揚げたてでサクサクしてて美味。ソースが濃厚で分厚いカツにもせん切りキャベツにも負けてない。
 さてスープ焼きそばは。
 その前にスープ焼きそばについてご説明しよう。
 スープ焼きそばは、塩原温泉郷がとて焼きと並んで推進している、いわゆるご当地B級グルメである。
 千葉勝浦におけるタンタン麺と同じようなものだが、タンタン麺のようにどこにでもある、どこの店でも出すというものではない。
 取り扱っているのは「釜彦」と「こばや食堂」のわずか2店だけだ。
 しかもその2店がそれぞれ元祖を名乗っているという、ややこしい事態になっている。
 読んで字のごとく、焼きそばがスープの中に入っている。
 忙しい人がスープと焼きそばを一緒に食べたいと無理を言ったとか、出前の途中で焼きそばにラーメンスープをこぼしてしまったとか、そんな誕生秘話があるが、真偽のほどは定かではない。
 「釜彦」のスープ焼きそばは、ごくシンプルな焼きそばと、ごくシンプルな中華スープをあわせた、非常にシンプルであっさりした味。ラーメンほど脂っこくなくて老人にも食べやすい。具は鶏肉とキャベツとナルト。カツ丼もそうなんだが、キャベツがシャキシャキしてうまいね。
 なんでも、「釜彦」のスープ焼きそばは醤油味あっさり系でラーメン寄りの味つけ、「こばや食堂」のスープ焼きそばはソース味こってり系でソース焼きそば寄りの味つけなのだそうだ。
 しかしせっかくのB級グルメ、2店のみではもったいない。別な店でもスープ焼きそばを提供してはいかがだろうか。
 たとえばスープカタ焼きそば。油を多めにしてじっくり加熱し、堅くなった中華そばに、ややトロミをつけた五目スープを注ぐ。中華おこげの応用である。揚げたての麺がジュウと派手な音をたて湯気がもうもうというパフォーマンスもあり、千円くらいしても客は納得するのではないだろうか。
 他にも、フカヒレスープ焼きそば、スープカレー焼きそば、クリームシチュー焼きそば、味噌煮込み焼きそばなどなど、スープ焼きそばはまだまだ進化の余地があるだろう。

ソースカツ丼 スープ焼きそば

温泉街うろうろ

 次に近所の観光。
 ということで源三窟にやってきたのだが、ああなんということでしょう、本日休業ではありませんか。
 ホテルにあった割引券にも「年中無休」と描いてあったのにな。
 ここで母親が強風に疲れてホテルに戻ったので、ひとりで八幡神社に出かける。
 ここは八幡太郎義家が前九年だか後三年だかの戦に出かける前に勝利祈願したとかいう神社。そのときからあるという逆さ杉が境内のど真ん中に鎮座している。

休業の源三窟 八幡神社の逆杉

 さらに北上して橋を渡り、林道に入ろうとすると「熊注意」というおそろしげな標識が立っている。
 その林道を熊を注意しながら歩いていたら、道に迷ってしまった。
 迷いながらたどりついた廃屋めいたトタン屋根の掘っ立て小屋には、あやしげな看板がある。
 「あなたには何が不足しているか」と症状別に不足している元素を列挙し、だから温泉で不足したミネラルを摂取して健康になりなさい、と言いたいのだろうが、どう考えても安心感よりは不安感を醸成する文体と文字。
 「排便時に肛門がヒリヒリする 鉄」「放尿に焼けつくような痛みがある マグネシウム」はトイレでの痛みシリーズ。しかし本当に温泉で治るのか。温泉で痔が出た人もいるのだが。
 「心臓弁膜が収縮する カリウム」「呼吸困難になる 鉄、マグネシウム」「静脈瘤 カルシウム」は温泉行く間に病院行きなさいと忠告したくなる。
 「仕事をしながらいねむりする マグネシウム」「昼間ねむい ナトリウム、鉄」「早くねむくなる カルシウム」「いつもねむい マンガン」は眠気のジェットストリームアタック。世に眠くなる種は尽きまじ、といったところだろうか。

熊に注意 謎の看板

 ようやく元の道に戻り、木の葉化石園に到着。
 だれもいない様子で照明もついてない。
 ここも休みかと思ったが、ダメモトで声を出してみたら、中からおばさんが出てきた。
 しばらく客が来なかったらしい。入場料450円を受け取ると、照明をつけてくれた。ストーブはつけっぱなしだったらしく暖かい。
 ここでは塩原で発掘された、主に木の葉の化石を現在の植物標本と並べて展示しているのだが、それより標本の上に掲げている過去の生態系の絵がすばらしい。キッチュな色使いで、横尾忠則の絵かヨコプロの怪獣ブロマイドかという味わいを見せてくれる。
 売店で化石の原石というのを550円で売っていたので買ってみる。石灰岩が雲母みたいにヨコに割れやすくなっているので、マイナスドライバーみたいな薄い金属で叩くと何枚にも割れ、うまくいくと化石が含まれてるかもしれないという話だ。

古生代の生態系 中生代の生態系

 ここから南下して1キロ弱を歩く。途中でスープ焼きそばのもうひとつの雄、「こばや食堂」を見かける。小さな駐車場に数台の車が止まっていたが、さすがに食う元気はない。
 さらに途中で「今井屋」という温泉まんじゅうの店に寄る。
 名物温泉まんぢう(そう表記するらしい)は添加物不使用なので2〜3日しかもたないとのことで、職場のばらまき土産にはならんなあ。自家用に温泉まんぢうと田舎まんぢうを2個ずつ購入。食べてみると砂糖控えめ、あずきの味がしっかりしたものでした。確かにこれは日持ちせんわ。
 ようやく「塩原もの語り館」に到着。野菜の即売所みたいなところが閉鎖されていて、ひょっとするとここも臨時休業か?と思ってしまったが、奥に入口があって展示室に入れた。ここでは塩原をめぐる文人の歴史を展示している。
 尾崎紅葉「新金色夜叉」と塩原の関係とか、塩原の宿の主人は俳人でしたとかの展示もあったのだが、なにしろ室生犀星のマンガに圧倒されてしまい、よく覚えていない。

こばや食堂 室生犀星

 もの語り館の売店で職場ばらまき用の菓子を買い、吊り橋へ。
 裏手に紅葉吊り橋という30メートルほどの吊り橋があって対岸に渡れる。秋には紅葉に飾られて綺麗なんだろうなあ。
 対岸の川辺に温泉があった。
 百円を無人スタンドに投げ入れれば入浴できるそうだが、さすがに今の天候、ホテルからのこの距離で、温泉に入ってしまったら湯冷めするの確実なので断念する。

紅葉吊り橋 岸辺温泉

 さすがにこれが限界だった。
 宿に戻る。
 ここ塩原ではこの季節、移動が困難なのだ。
 塩原の温泉街道を走るバスはあるのだが、なにせ1時間に多くて1本。4時には終バスが出る。ふらりとバスに乗ったはいいが、戻ってこれなくて行方不明、などということにもなりかねない。
 バスに乗るには綿密な計画とタイムスケジュールを立てておくことが必要なのである。
 そしてタクシーは見たことがない。
 あと、とて馬車という観光用馬車が走っているそうなのだが、どこでどうしているのやら。

露天風呂の実力

 宿に戻り、浴衣に着替え、薄っぺらいタオル1本ぶらさげて温泉に行く。
 温泉宿のタオルの薄っぺら加減については悪口を言う人が多い。
 しかし、私は、温泉宿では薄っぺらのタオルこそ正義である、と強く主張したい。なぜか。
 それは温泉宿の特性である。
 ふつうの旅館では、湯に入るのは夕食前か夕食後の1回きりである。タオルはそのとき使用され、次に使用されるのは起床時の洗面である。その時間差、約10時間。この時間なら、まあ普通のタオルでも、客室のタオル掛けにぶらさげておけば乾く。
 ところが温泉宿では、ふつうの客でも夕食前、夕食後、起床後と最低3回は湯に入る。よく入る客は、宿到着後、散歩後、夕食前、夕食後、酩酊後、就寝前、起床時、朝食前、朝食後、チェックアウト前と10回入る。むろん、タオルはその都度使用される。その時間差、ふつうの客で3〜5時間、よく入る客なら1時間。
 ぶ厚いタオルは、その時間内で乾燥することはない。浴客は湿った冷たいタオルをぶらさげて、温泉まで歩かねばならぬのである。これは楽しくない。
 ペラッペラの薄いタオルであればこそ、1時間やそこらの短期間に客室の乾燥・温暖な環境で乾燥し、浴客は乾いたタオルを持ち歩くことが可能になるのである。

 伊東園ホテル塩原は「9つの温泉!」をキャッチフレーズにしている。
 たぶん、入浴前のかけ湯、一般風呂、ジャグジー風呂、寝湯、泡風呂(ソープランドではない)、打たせ湯、サウナ、水風呂、露天風呂を9つとカウントしたのだろう。それぞれの風呂に説明板があり、効能と標準入浴時間が表記されている。
 泉質は炭酸水素の透明でおとなしい湯。
 いちおう全部ためしてみた。なにしろ浴客は私のほか1人しかいない。それもすぐ出て行った。入り放題である。
 打たせ湯は実は打たせ水だったので早々に逃げ出す。
 やはり露天風呂がいちばん気持ちよかった。
 他より熱めの風呂なので、2分かそこらで熱くて我慢できなくなって外に出る。
 全裸で岩の上に座り、零度近くの外気に2分かそこら肌を晒していると、今度は寒くて我慢できなくなって湯に入る。
 この繰り返しを10回かそこら行っていた。
 露天風呂の醍醐味は湯の浪費にある。
 一般家庭では風呂の湯が冷めることを厳にいましめている。
 風呂が沸いたら、母親が「早く入りなさいよー」と声をかけ、湯が冷めないうちに入浴することを厳命する。
 狭い湯船に、さらにプラスチックのフタみたいなものをかぶせて、熱を失うことを防止している。
 一般家庭では「熱、もったいない」の思想で風呂を管理しているのである。
 そこへいくと露天風呂は豪快だ。
 かけ流しの湯が惜しげもなくザアザアと流出する。
 冷気に触れた湯からは惜しげもなく湯気がモウモウと、まるで円谷特撮のように湧き出す。
 露天風呂は「熱、惜しくない」の思想で管理されているのである。
 旅行とは日常性からの逸脱であるというテーゼが正しいなら、露天風呂こそ旅行の神髄であると言えるだろう。

 とにかく旅館内はガラガラなので、自動式のフットマッサージャーも足つぼマッサージャーも使い放題。足が痛くなるほど使い倒してから部屋に戻る。

 部屋に戻ってテレビをつけてみる。
 しおばら情報番組というのをやっていた。
 これは素人男性アナが塩原のゆるキャラと掛け合いで、塩原のニュースや特産品や観光スポットを紹介していく番組であるらしい。
 ゆるキャラはふろふきんちゃんという、塩原特産の大根を輪切りにしたものに目口をつけて温泉のタオルを頭の、というか輪切り大根の横っちょにつけた女性キャラであるらしい。
 見たはずなのに「……であるらしい」と伝聞型になっているのは、ふろふきんちゃんが所用で欠席し、男性のみが番組進行していたからである。
 男性アナは素人の悲しさ、よく原稿を読み間違える。
 これから話す話題を忘れてしまったりもする。
 しかし横にはツッコミを入れる相方も、フォローしてくれる同僚もいない。
 そういう役割のふろふきんちゃんが、休んでいる。
 男性のみの映像は美的にも好ましくない。
 せっかくの美しい塩原を楽しく紹介する番組が、なんとなく暗く悲惨な雰囲気になってしまうのである。
 塩原の放送局には、ふろふきんちゃんの皆勤を強く訴えたい。もしもふろふきんちゃんが休む場合は、しもつかれんちゃんでも温泉まん子ちゃんでもなんでもいいから、ゆるキャラを登場させることを強く勧告する。

ふろふきんちゃん

飲み放題の魔術

 やがて6時になり、食事の用意ができた旨のチャイムが鳴る。
 このホテルでは食事は2部制と聞いていたが、本日は6時から8時までの1回きり。
 バイキングに行列ができる、メインの食い物はすぐなくなる、等々の警告をネットで読んでいたので、すぐ駆けつけたのだが、食堂はガラガラだった。
 ここで伊東園ホテル塩原の本日の宿泊客が判明した。
 総勢、約20名。
 これでは2部制にする必要もないし、食い物もなくならんわな、と安心する。
 人数が少ないぶん品目を減らしてるのではないか、とテーブルを見たが、テーブル一杯に食い物が並んでいたので、そんなこともないようだ。
 逆に、こんなことでホテルの経営は成り立つのか、といらぬ心配をしてしまう。

バイキング

 バイキングは、9分割された皿にそれぞれの料理を盛っていく形式。
 料理を思い出される限り列挙してみると、
 前菜の部:枝豆、野菜サラダ、豚しゃぶサラダ
 煮物の部:厚揚げ煮、ふろふき大根、ミートボール
 揚げ物の部:鶏唐揚、ポテトフライ、串カツ、春巻き
 炒め物の部:アサリと大根炒め、ブロッコリー炒め、ミニハンバーグ、麻婆豆腐
 刺身の部:イカソーメン
 ご飯・麺類の部:ご飯、カレーライス、ちらし寿司、チャーハン、焼きそば、うどん
 汁物の部:キムチチゲ、味噌汁
 デザート:ネーブル、シュークリーム、アイスクリーム
 こんな感じだったと思う。
 さらに「ずわい蟹フェア」期間中なので、ズワイガニ脚が、別皿で提供される。ひと皿に小さめの脚2本。
 こうして並べると、ズワイガニ以外にメインといえる食い物がないことがわかる。ローストビーフもステーキもない、貝類はアサリのみ、刺身はイカのみ。
 そしてどれも、あんまりおいしくない。鶏唐揚はアミノ酸系の調味料の味がした。春巻きは皮がぱりっとしてない。麻婆豆腐は味がしない。串カツはタマネギばっかり。
 結局、イカソーメンとズワイガニばっかり3回ずつおかわりした。このバイキング、ズワイガニがなかったら、かなり悲惨なことになっていたように思う。
 おおまかに格安三大手ホテルのバイキングを比較すると、伊東園からズワイガニを抜いたのがおおるり、伊東園にローストビーフと刺身を足したのが大江戸、という感じになるのだろうか。

 この手の格安観光ホテルのバイキングは、情報掲示板などでいろいろと悪口を書かれている。
 いわく、「給食バイキング」いわく「ホームレスの炊き出しバイキング」いわく「難民キャンプのバイキング」、などなど。それに対抗して、「この値段なら当たり前だろ」「こんな低価格でなにを要求するんだ乞食め」「乞食は乞食らしく黙って出されたもの食ってりゃいいんだ」などの書き込みがあって荒れ放題になる、というのが掲示板の宿命である。
 本日は客が少ないので行列はしなくて済んだ。メインのズワイガニですら最後までなくならなかった。
 まあ、形容するなら、「格安居酒屋のいちばん安いコース料理のバイキング」とでもなるだろうか。
 あと不満なのは、料理がほとんど冷めていたこと。
 ほとんどの料理が皿に盛られたまま冷めるにまかされていた。保温されていたのは、焼きそば、キムチチゲ、味噌汁、うどんの汁、飯、カレーくらいなものだったろうか。

 飲み放題に関しては、不満はほとんどなかった。
 生ビール、各種チューハイ、ハイボール、熱燗が、各種サーバーから注がれる。
 ビールは注いだあと、泡をこぼれるほど足してくれる。
 ビールの銘柄がわかるほど通ではないが、発泡酒ではなかった。
 けっきょく、ビールをグラス5杯、熱燗を徳利で3本くらい飲んだかなあ。
 酒のサービスは告知なく7時半には終わりになる。7時40分にビールサーバーに行ったら、もう片づけられていた。私の隣の席のおじさんは、両手に徳利をぶらさげて、呆然と立ちすくんでいた。
 ホテルの案内に「オーダーストップ19:30」と明記してはいるものの、居酒屋チェーンのマニュアルに倣い、ラストオーダーの告知をしていただけないものだろうか。

 夕食後部屋に戻って、まだ8時。
 ふろふきんちゃん無き塩原チャンネルを見ながら買ってきてた日本酒を飲み直し、少し酔ったところでふたたび温泉。今度はだれもいない。カラオケボックスも開いていたので、とりあえず「LOVE(抱きしめたい)」を熱唱して戻る。
 帰りに自販機でビールとハイボールを買って、また部屋で飲み直しつつ、村井玄斎の「酒道楽」を読む。
 これがひどい本だった。
 以前、同じ人の「食道楽」を読んで投げ出した。文字通り、腹を立てて床に投げつけたのである。
 今回も同じ経緯をたどって投げ出した。
 作者の浅薄な啓蒙気分(とても啓蒙思想などとは表現できない)と、徹底的なプチブル道徳に、我慢ができなかった。こんなもんがベストセラーになったなんて、明治の日本人はなんて器が大きかったんだ。
 ひとしきり激怒したら眠くなったので寝る。

源三窟リベンジ

 寝るのが早かったので4時ごろ目覚める。
 5時を待って温泉に入る。またもだれもいない。
 朝食は7時半。
 朝食バイキングは、パン、ご飯、お粥等の主食に、ハム、ソーセージ、サラダ等の洋食系、卵焼き、ひじき、インゲンみそあえ、のり佃煮、昆布佃煮、煮鮭、漬け物等の和食系、シューマイの中華系おかず。なぜか旅館の朝食定番の、味付け海苔と生卵がなかった。
 私は納豆ご飯と味噌汁に、シューマイとソーセージとサラダだけ昨晩と同じ九分割トレイに載せて、ちょっとだけいただく。少し酒が残ってる感があったので。

 10時ごろに宿を出る。
 めざすは昨日休んでいた源三窟。
 さいわい、本日は開いていた。入場料700円を払って洞窟へ下る。
 この洞窟には源三位頼政の孫、源有綱がこもっていたと伝えられる。
 ちなみに有綱は三位ではない。従五位である。
 源三位頼政はヌエ退治で有名だが、晩年に平家に対して叛乱を起こし、息子の仲綱とともに宇治川で戦死した。
 そのとき、仲綱の息子、有綱は伊豆の所領地にいて命が助かったらしい。
 そういえば伊豆で、頼政が帝から与えられたあやめ御前という妻の古蹟を見た記憶がある。
 ひょっとすると有綱もあやめ御前に養育されていたのかもしれない。
 有綱はやがて源頼朝の旗揚げに参加し、義経付きの武将となる。
 屋島、壇ノ浦と義経について連戦し、かなり重要な地位にあったらしい。義経の娘(たぶんどこかの娘を義経の養女にしたのだろうが)を娶ったという。
 義経が兄頼朝と対立したときも一緒に都落ちした。
 その後の史実は定かではない。
 一説によると大和国で北条に討たれたと言うし、また一説によると伊豆の所領地に隠れていたところを捕縛されたともいうし、またまた一説によると、宇都宮氏を頼って那須塩原に逃げのびたともいう。塩原ではこの最後の説を採用したわけだ。
 宇都宮氏も困って塩原の塩原氏に預け、塩原氏も天下の罪人を館に置くわけにもいかず、こんな鍾乳洞に押し込めたという。
 この鍾乳洞で源有綱は再起を図ろうとしていたが、米のとぎ汁が川に流れて発見され、あえない最期をとげましたどっとはらいという話らしい。
 要するに、温泉と鍾乳石の溶けた白っぽい濁り水が流れるのを見て作った話だね。
 洞窟は100メートルほどの短いものだが、随所に武将フィギュアがあって退屈しない。
 洞窟を出たところに展示室があるが、鉄砲弓矢甲冑などが時代もさまざまに展示されている中で、この洞窟から出土したという甲冑があった。
 なんでも、この甲冑がテレビで放映されたときに武将の亡霊が映り込んだという話で、「写真撮影すると亡霊も写るかもしれませんよ」と扇情的なことが書いてある。

修理中 甲冑

 源三窟を出て、さて早めの昼飯でも。
 ホテルの真正面にある大武は、土産物屋こそしょぼいが、併設したそば屋はなかなかの人気なのだ。
 ところがしかし、店に行ってみたら、なんと金曜定休だった。
 しゃあない、とて焼きでも食うか。
 とて焼きとはそば粉のクレープで各種食品をくるんだクレープのごとき塩原名物で、店によって具はあんこだったりクリームだったり刺身だったりいろいろである。たしか近所の花水木では、チキンケバブをくるんだとて焼きだったはずだ。
 しかしああなんとしたことか、花水木も臨時休業中だった。
 もはやこの近在には、開いてる食い物屋は存在しない。
 泣く泣く昼飯を諦め、ホテルに戻った。

 でも昼飯を食いっぱぐれて、かえってよかったのかもしれない。
 というのは、予定より早く、11時にはマイクロバスが到着して、すぐ出発したからだ。たぶん昼飯を食ってたら間に合わなかった。
 さらにこのころから体調が悪化してきたからだ。
 頭は熱っぽい、胃が痛い、冷や汗が出る、というていたらくで、マイクロバスに乗り込んで帰途についたときには車酔いまで併発してしまった。
 途中、大谷PAで休憩したときにトイレで吐く。
 それでも栃木県人のソウルドリンクともいうべきレモン牛乳を買うのは忘れませんでした。

 まあ考えてみれば体調を崩して当然だったかもしれない。
 昨日昼に塩原に到着してから4時間ほど歩きまわり、宿に戻ってすぐ温泉フルコース、夕食で暴飲暴食、さらに温泉フルコース、そして飲み直し、明け方にまた温泉。そこから朝食後洞窟探検。あと、「村井弦斎を読んで激怒」というのも体力低下の大きな要因だった。

 この人生、温泉にもたびたび入ってきた。
 北は網走から南は阿蘇まで、いろんな温泉にも入ってきたが、温泉で体力回復どころか、温泉でかえって体調を崩してばっかりだったような気がする。
 いや待て、伊豆では精神的にも肉体的にも回復したな。でもあれは、親戚の温泉マンションを借りて1週間くらいのんびりとしていたからだった。
 やはり「温泉で骨休め」は、長期逗留者にしか許されない幸福なのであろうか。

 どっとはらい。


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