聖人考

 聖人といえば聖人君子などと謂いなして屁もひらず糞もせずといった堅苦しい輩と思われがちなれど、中には風呂の水を麦酒に変じ飲み干した聖ブリヂッド、柱の上で端座したまま四十五年間降りてこなんだ聖シメオン、自らの身を食いおりし蚤を捕らえては雄雌を分けて再び放ちやりし聖エルヴィラ等の愉快なる面子もあり。カトリック教会に於いては聖人の称号はバチカン一手にて独占し、まず福者の称号を得ることが必要なり。厳正なる審査の末その言動が耶蘇の教えに則れると認めおりし人物はこれを福者と認定す。さらに審査を続け、生前死後を問わず二回以上の奇蹟を行えりと認められた者にして初めて聖者の称号を贈る。すなわち聖者とは奇跡を起こす者の謂なり。
 奇蹟はキリストや聖ブリヂッドの如く麺麭や酒を無から生ぜしめたり、聖ポーラの如く強姦魔に襲われし時神に祈りを捧げ我の純潔を守らしめんというと俄にその顔貌にむじゃらむじゃらと強い髭生じるに至って強姦魔興を冷まして去れりというようなものでもよろしいが、やはりもっとも多きは病気治癒なり。その当初はキリストの如く病全般引き受け候と貼り札を下げ全国を漫遊せし聖者もあったが、世が下るにつれ昨今の病院の如く専門おのづから狭まる。聖ロクスはペスト、聖アントニウスは皮膚病、聖マウルは痛風、聖モールは瘧、聖アポロニアは歯科全般と定まる。なぜに聖者がかくも病気治療に意を尽くすのかと考えるに無理もない。彼らはそもそも隠者として暮らせる者多し。荒野や森林に貧寒なる庵を建てそこに暮らす。多くは生まれながらに髪の毛を梳かず切らず、風呂に入らず衣服を替えず、悪臭紛々たる様にてその聖徳を誇る。不衛生なことこの上なし。従って皮膚病や伝染病などで命を失いし聖者きわめて多し。その宿願にて病気に卓効ありしこと、わが邦で咳のをば様として伝えたる、戦場にて主君の幼子を負うて草むらに隠れしが、不意に持病の咳が出て敵軍に見いだされ、処刑されしが、今後わが宿願は咳に悩みし人の咳を去ることなりとて、その像に祈れば喘息持ちも咳を去るものと同工なり。
 病気治癒の奇跡を起こすのは生前なれば按手しまたは祈りを捧げて行うのであるが、死後はかかること行うあたわず。従って信者は聖遺物に祈りを捧げ、もって治癒を祈願する。聖遺物とは聖人の遺物なり。生前の衣服什器なることもあれど、その多くは聖人の遺骸なり。五体満足なる遺骸ならずとも、その指の骨一本、歯一本なりとても聖徳にて奇蹟を起こすこと驚くべきなり。
 聖遺物の効き目甚大にして善男善女を引きつける力限りなければ、おのずから各教会にて聖遺物の争奪戦が起こるは道理なり。聖エリザベートは死後教会にその遺骸を安置したるが、そこに信者が殺到して衣服髪の毛爪は愚か耳乳首までももぎ取られ、浅ましい様を晒したり。聖アポローニアは前述の通り歯科に卓効ある聖者なるがゆえ、遺骸から歯を抜いて盗む者絶えず、しまいには英国に保管されし歯だけで総計数頓に達すると伝える。聖ヒューなどは生前聖遺物を盗むことを生業としており、修道院を訪れては聖遺物を拝観し、隙を見ては指の一本、頭蓋骨の一欠片なりと囓っては口に銜え逃げるを常習とした。斯様な盗人が聖者として認められるのが基督教の面白いところぢゃ。ともかく聖者たるもの、死して屍揃うことなしと覚悟するがよろしい。
 死後ならまだよいが、屡々生前の聖者に対しても同様の圧力が加えられしことあり。聖ロムアルドゥスは山地ウムブリアを周遊せし折り、聖徳を慕いて聖遺物を欲したる村人に襲撃され撲殺されんとしたことあり。聖者はおちおち旅行もしておられぬ。聖トマス・アクィナスは修道院にて病を得て死にたるが、修道士たちは時を移さず聖遺物を保管せんとて大鍋に熱湯を沸かし、それに聖者の死骸を投じたり。そのとき熱いと叫ぶ声聞こえたるも修道士は動ぜず、さらに薪を足して煮込み天晴れ聖遺物を作りあげたのは立派なものぢゃ。


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