星に願いを
今回の獅子座流星群は、期待ほど派手には流れなかったようだ。
寒い中、田舎まで車で出かけていった人や、河原まで歩いていった人、物干し台で毛布にくるまっていた人、ご苦労様でした。
風邪を引いた人も多いかと存じます。
私?酒呑んで寝てました。
これでも昔は天文少年だったのですが。
鉄道少年のことを「てっちゃん」というように、天文少年は、「天ちゃん」と呼ばれていた。
「天ちゃん」と呼ばれたら、「あ、そう」と返すのが、当時の天文少年の礼儀だった。
今はどうなのでしょうか。余談ですが。
ともあれ、流星。
流星を見たときは、願い事を唱えるのが、日本の常識である。
光が消えるまでに、3回願い事を言えば、それは叶えられる、ということになっている。
流星はよほど大きなものでも2秒から3秒。その間に3回言わなければならない。
結局は、「金、金、金」と唱えるということに決まっている。これには地方差がないらしい。青島幸男が都議会で決めたのかもしれない。
ところが不思議なのは、漫画、小説、映画等に出演する流星には、この、3回という枷が無いようなのである。
たとえば、こんなシーンで。
貧乏な母子がいた。
父親は出稼ぎに行ったまま数年間音信不通。
母親はやむなく野菜の行商で日銭を稼ぎ、中学に通う娘を育てている。
ある冬の夜。
母親は火鉢のわきで娘の靴下を繕っている。娘はその横で予習をしている。火鉢には薬缶がかかり、蒸気をしゅんしゅんと吹き上げている。
娘はふと窓から外を眺め、母親に言う。
「お母さん、ほら、星があんなにきれい」
母親は手を止め、窓を開けてみる。
息が白い。
母と娘はしばらく、冬の銀河を眺める。
その刹那、ひとすじの流れ星が走る。
母子は思わず、同じ願い事をつぶやいた。
「お父さんが帰ってきますように」
またあるいは、こんなシーンが。
哀しい恋人たちがいた。
男は貧しい家の出身で、工場に勤めながら夜学に通う苦労人。
女は工場のオーナーの娘。
男が貧しいので、父親は娘との仲を許してくれない。
二人は許されざる愛を嘆きながら、夏の夜、工場からの帰り道を歩く。
女はふと足を止め、男に言う。
「ほら、あんなに星が綺麗」
男は立ち止まり、女の手をぎゅっと握って、空を仰ぐ。
二人はしばらく、夏の銀河を眺める。
その刹那、ひとすじの流れ星が。
二人は思わず、同じ願い事をつぶやいた。
「私たちの愛が実りますように」
流れ星は、不遇なひとによく似合う。
今回の獅子座流星群は、不発だった。
前回のジャコビニ流星群も、あまり見えなかったらしい。
私が思うに、やはり流星は不遇なひとにのみ見えるものではないだろうか。
恵まれたひとには見えないのではないだろうか。
昨今、期待はずれの流星群が多いのは、やはり日本人が恵まれていることが原因ではあるまいか。
ということは、私が見に行けばいいのでは。
不遇な駄文書きがいた。
読みにくい文章。誰でも知っていることを偉そうに書く。ギャグは滑る。
おまけにそんな駄文でさえ、スランプでなかなか書けない。
やっと思いつき、書きだしたのはいいが、途中でパソコンはハングアップし、せっかくの文章が消えてしまう。
駄文書きは泣きながら、夜の河辺を走った。
世間の冷たさと、自分の不甲斐なさを呪いながら。
駄文書きはふと足を止め、空を見上げた。
埼玉の夜空は珍しく澄み、星がちらちらとまたたいている。
その刹那、流れ星が走った。
駄文書きは思わず心に唱えた。
「立派な雑文書きになれますように」