ぬりかべ

 「ぬりかべ」という妖怪は、山に出るのだそうだ。
 山道を歩いていてふと気づくと、ある地点から先に進むことができなくなっている。まるで目に見えない壁がそこにあるかのように。どうしても進めない。そんなとき、無理に前進してはいけない。そうすると「ぬりかべ」に捕まって、「ぬりかべ」の中に塗り込められてしまうからだ。「ぬりかべ」が出たな、と思ったら、落ち着くことが大事。立ち止まって一服しているうちに、いつの間にか「ぬりかべ」は消えているという。

 この「ぬりかべ」という妖怪には、どうも不思議な点が多い。まず、山の妖怪にしては人工的でありすぎる。ふつう山の妖怪は、「雷獣」や「ももんがあ」のように山の獣が化したもの、「やまわろ」や「山びこ」のように山の自然現象を擬人化したもの、「山人」や「山赤子」のように人間が山の気を浴びて妖怪化したもの、などが主である。これらは妖怪といえども、山の自然の中に同化している。山にいてもおかしくない。ところがこれは壁だ。山に壁だ。そんなもの、どこにもない。そんなものがあったらどうかしている。自然の中に異質な人工物がぽつりと点在するもの、それが「ぬりかべ」の本質なのだ。
 さらに不思議なことに、村におりたところで、そんな壁は稀だったのだ。人間を塗り込めるなんて、そんな分厚い壁、ふつうの民家にはありはしない。普通の民家は、落語の長屋にあるように、五寸釘を打つと隣に突き抜けるほど薄い壁だった。人間を塗り込めるなんて、とんでもない。厚い壁は、庄屋の土蔵か大名の城くらいしかなかった。そこだって、人間を塗り込める風習などなかった。お城の壁には、籠城に備えて干魚や鯣を塗り込んでいたそうだが、そんなものが人間の代わりになるとは、まさか誰も思うまい。

 むしろ壁に人を塗り込めるのは西洋の風習だった。ポーの「黒猫」のように、殺した人を壁に塗り込めるのは、西洋の上流紳士のたしなみであった。いやしくも歴史を誇る洋館ならば、その昔殺されて塗り込められた貴族の夫人(時には夫)をその壁の中に有していなければ、恥ずかしくて顔も上げられない有様だった。できればその横に地下牢と拷問台があってほしい。
 繰り返すが、日本ではそんなことはしなかった。人を殺したら戸板にくくりつけて川に流すのがならわしだった。川が近くにないときは井戸に死体を蹴込む。それもなければ背負って踊る。それが自然と共に生きる日本の風習だった。
 そう、「ぬりかべ」とは、「自然」に反するすべてのものの象徴だったのだ。山の中に壁。それも日本のものではない、西洋の壁だ。これは「人工」の象徴でなくて、何であろうか。おそらくこの妖怪は、明治初年に現れたものであろう。ご存じのように明治は変革の時代であった。「自然」と「人工」が衝突した時代であった。山村に象徴される、自然と同化して暮らす日本の文化と、西洋文物に象徴される、自然を征服する人工的な文化とが。山村を否応なしに侵略する近代西洋文化。その尖兵こそが、「ぬりかべ」であった。「ぬりかべ」を見る村人達の視線は、大いなる不安と、幾分かの憧憬を秘めていたに違いない。

 「ぬりかべ」は、また現代にも生きている。「ぬりかべ」という言葉は、また女性のファッション用語としても活用される。美白ならびにガングロとして知られる化粧法は、しばしば「顔面ぬりかべ」として揶揄的に表現される。
 白粉を塗りたくる美白と、靴墨をなすりつけたようなガングロ。表面的なものは対称的だが、根本に流れるものは一緒である。どちらも、自然の肌色を忌むべきもの、厭わしいものとして排除し、人工的な着色に従わせようとする。「自然」に対する、「人工」の凱歌がそこに叫ばれているのだ。
 これらの化粧法の流行は、「自然」に対する無意識な不信感の表明として見ることができる。
 現代ほど「自然」がよきものとして尊ばれた時代はない。ところがそれには根拠がない。なぜ、「自然」がいいものなのか、何の説明もない。あってもその説明は難解で、とても理解できるものではない。「ガイア」とか「宇宙船地球号」とか「同じ地球の住人」とか、意味があるとも思えない、聞き慣れない単語の羅列を聞くだけのことだ。「自然」という言葉は、ただよきものとして無反省に投げ出されている。現代の人間はそこに、若干の後ろめたさと、根強い不信感を抱く。天然成分のコラーゲン配合の化粧品は本当に肌に優しいのか。天然水で造ったビールが美味いという根拠はどこだ。成分無調整の牛乳は調整牛乳よりなぜ高いんだ。天然物のヒラメは値段の分だけ養殖物より美味しいのか本当に。河口堰は本当に不要なのか。クジラは増えてるのか減ってるのかどっちなんだ。雑木林なんてそんなたいそうに保存するほどのものか。たかがイルカと一緒に泳いだだけで癒されるお人好しなんて、どこにいるんだ。これらの無数の疑問に取り囲まれて、現代人は生きている。

 おそらく意識の下に抑圧されたこれらの疑問、現代人なら抱くべからずとされている疑問のひとつが、あるときひょっこりと顔を出すことがある。そのとき、人は「ぬりかべ」を見るのだ。進みたくても進めない、これは責任の転嫁であるとともに、意志の放棄でもある。天然信仰に対する無意識の不信感、解けない疑問が散在する苛立たしさと後ろめたさ、それこそが「ぬりかべ」を産み出す土壌となっているのだ。


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