昼下がりの街角で (第4回雑文祭参加作品)
とんでもないものを見てしまった。
聞いてしまった、というほうが正確だろうか。
休日の昼下がり。大学の同好会時代の知人が集まっているビアホールの中。昼間から酒を呑んでいる気分というのも、なかなか乙なものだ。そんな我々でもけじめというものがあって、日本酒は夜から、日のある内に飲んでいいのはビールだけ、と決めている。規律正しい集団と言うべきであろう。メンバーは元同級生が6人。その奥さんが2人。元先輩が4人。その奥さんが3人。元後輩が3人。
すっかり結婚したメンバーが増えた。まあ、30も過ぎているから仕方がないか。
中には元同級生にして元先輩の奥さん、などというのもいるから、これで人数推定や相関図作成は難しい。
下手をすると毎週顔を合わせている仲だから、お互い遠慮がない。奥さんにしろ、もはや常連である。その奥さんのひとりがその日の主役だった。
元同級生の奥さんである。
相思相愛というか、一心同体というか、偕老同穴というか、そういう夫婦である。
初対面のとき「なぜ彼と結婚しようと決心したの?」と聞かれて、
「そりゃー、愛しているからでちゅよー」と堂々と答えた豪の者である。
その半年後、「まだ旦那を愛している?」と聞かれて(聞く方もどうかと思うが)、
「結婚して一緒に暮らして、ますます愛が強まりましたの」と答えたツワモノである。
むかしミンキーモモというアニメがあって、そこの両親(おとぎの国フェナリナーサでない方の)が結婚10年もするのに何かとラブシーンを演じたがる熱愛カップルであり、子供やペットにまで「生涯一新婚」と言われるほどだったのであるが、それに酷似している。のろけ、という言葉がある。
「惚気」と書く。広辞苑によると、「色におぼれる。女にひかれて甘くなる。とろける。自分と妻・夫や恋人とのことを、いい気になって得意そうに話す」と定義されている。
彼女はいい気になっていない。
得意げに話すのでもない。
当然、という口調で話すのである。
彼女にとって旦那を熱愛することは、たとえば自衛官が国を愛するのと同じ、当然のことなのである。日本文化は、愛を表明するのを許さない伝統があった。
たとえ配偶者を愛していても、それを他人には見せないのが美風だった。
たとえ三国一の美女であっても、小野小町か楊貴妃か、という美貌であっても、「豚妻」「愚妻」とへりくだることが日本文化であった。
中国でも、「謀婦人に及べり」「男は内を言わず、女は外を言わず」などといって、夫が家の中のことを外に持ち出したり、妻が家の外のことを内に持ち込んだりするのを戒めていた。
これに対し欧米、特にアメリカの文化は、率直に愛を表明する。
出勤するときに玄関口でキスを交わしたりする。
「愛してるよ」などと毎日言ったりする。
会社で奥さんの写真を飾ったりする。
結婚指輪をはめて会社に行ったりする。
日本も戦後かなり欧米化し、愛に関してもかなり率直になってきたが、まだ欧米にはかなわない気がする。あの夫婦は、超欧米文化なのかもしれない。
そのうち、家庭内での会話の話になった。
「やっぱり毎日、家でも話したりするの?」
「うーん、旦那は帰りが遅いでちゅからねー、でも晩御飯は一緒に食べてるんでちゅよー」
この口調は誇張ではなく、本当にこう喋っているのである。
「テレビとか見ながら?」
「そうでちゅねー、テレビも見るけど、やっぱり夫婦は会話がなくちゃねー」
「よく喋る方なんだ」
「でもねー、わたしたち家では、日本語では話してないんでちゅよー」
「えっ、もしや英語で?」
「違う違う。わたしたち、家ではボディランゲージなのー」ぼ、ぼ、ボディランゲージ。
これで質問者はとどめを刺された。
奥さんは当然のようににこにこ笑っている。
そのちょっと後ろで旦那は、ちょっと困ったような、でも嬉しいような、困惑三分歓喜七分くらいの曖昧な微笑を浮かべている。
ボディーランゲージでの会話って、
どうするのでしょう。
どうか教えてください。