新世紀ワイド時代駄文「宮本武蔵」

一部「野生児たけぞうから武蔵へ」
 武蔵は戦国の真っ只中、天正年間に、美作国宮本村に生まれた。美作とは、今の岡山県から倉敷・岡山など海沿いの豊かな備前を除いた、ド田舎でクソの役にも立たない、山と木と猿ばっかりが豊富な地方である。その貧乏たらしさといったら、比べるものが北海道根釧台地と青森県津軽山地と山形県羽前地方と茨城県牛久沼と山梨県大菩薩峠と、ええとあとは略すが、まあそんな土地である。
 新免無二斎という剣客の家で誕生したその子は、家が智頭線宮本武蔵駅の駅前だったので、武蔵と名づけられた。幼い頃はタケゾウと呼ばれていたが、やがてムサシと名乗るようになった。風呂嫌いで髪の毛に虱が多数たかり、たいそうむさ苦しかったからだとも言われる。
 武蔵は十三歳のとき、早くも有馬喜兵衛という高名な剣客を殺している。尋常な才能ではなかったが、親父の無二斎ともども、村では蛇蝎のように嫌われた。勝負の手口が汚く、おまけに相手が降参しても許さず、頭蓋を砕いて脳漿を出すまで止めようとはしなかったからである。脳漿フェチだったのかもしれない。確かに脳漿はたいそう気持ちいいものである。ほの暖かくて柔らかい手触りがたまらない。ピンクで毛細血管が見えるのも素晴らしい。なんといってもぶるぶるとしてぐちゃぐちゃしているのがス・テ・キ(はぁと)。
 そんな武蔵に、たったひとり優しかったのが、お通という少女であった。武蔵とお通の間の交流がどこまでだったか、それは不明であるが、お通は岡山県人だったから、もちろん不細工であった。そのためか、武蔵はその後、「一生不犯」を標榜するのである。よほどのトラウマがあったらしい。

二部「柳生! 吉岡! 宝蔵院! 道場破り」
 無二斎も死に、村を追い出された武蔵は、やがて起こった関が原の合戦に、宇喜多秀家の足軽として参加する。しかし、戦場では鉄砲や槍が主流の武器である。刀などは役立たずで、なにほどの戦功もないまま宇喜多は敗れる。武蔵はのちの大阪の陣でも豊臣方について負けている。よほどの負け運が憑いているとしか言いようがないが、武蔵は、「俺を侍大将にしなかったから負けたんだ」と言って昂然としていたという。いるよね、こういう人って。
 やむなく武蔵は諸国を漫遊して悪代官をこらしめたり杖を突いて泉を湧き出させたり「美空ひぼり」と名乗って歌謡ショーを開いたりしていたが、食うに困ったので京の剣客、吉岡一門に挑戦する。
 武蔵と戦った吉岡清十郎、伝七郎、又七郎という男たちは、弱かったらしい。どのくらい弱いかというと、当時の戸籍にも人別帖にも名前を載せておらず、ために歴史家も実在を信じていないほどだ。おそらく、あまりに弱いので文書から抹殺されたのだろう。吉岡家も卑怯な手を使うものである。

三部「梅軒と吉岡兄弟二刀流開眼」
 実在も曖昧な吉岡の連中を倒した武蔵は、やがてこれは実在の吉岡家当主、吉岡憲法と戦う。この戦いは公式には引き分けとされたが、武蔵側の資料では武蔵が憲法に勝ったことになっている。吉岡家では卑怯なことに、このときの試合で敗れ、例によって脳漿がはみ出して死んだはずの憲法が、それから十五年も生きていたことにして、あろうことか隠居所まで捏造している。歴史を馬鹿にするにも、程がある。
 鎖鎌を使う宍戸梅軒との決闘は、武蔵七番勝負のひとつである。武蔵七番勝負とは、この他に、鎖鍬の使い手水野松軒、鎖鋤の使い手伊藤竹軒、鎖田下駄の使い手太田甲軒、鎖案山子の使い手小川乙軒、鎖千歯こきの使い手武内丙軒、鎖肥溜めの使い手中島丁軒との戦いをさす。彼らはみな農民出身で、農具を使っているうちに武器としても使えることに気づき、それに鎖をつけて遠隔操作可能として威力を倍加させた。残念ながら鎖鎌以外に現在まで伝わっているものはなく、その使用法は謎のままである。
 この宍戸梅軒との戦いで武蔵は、かの有名な二刀流を編み出す。梅軒の投じた分銅を一本の刀で受け、もう一本の刀で鎌を防ぐ。しかし、実は当初、武蔵が三刀流を編み出していたことを知る人は少ない。三本目の刀は頭に鉢巻で結わえ付ける。こうして頭の刀で分銅を受け、二本目の刀で鎌を防ぎ、三本目の刀で斬る。しかし練習してみたところ、あまりにも八つ墓村に酷似している、というので不採用になった。著作権はむずかしい。

四部「一乗寺下り松そして巌流島の激闘」
 武蔵の勝負の最大のクライマックスが、巌流島の決闘である。それは昭和の時代に行われたアントニオ猪木とマサ斎藤のプロレス勝負にも例えられ、「慶長の巌流島決戦」と呼ばれているほどだ。
 細川候立会いのもと、「燕返し」の佐々木小次郎と「二刀流」の武蔵が巌流島の海岸で勝負を競う、という話は、あまりにも有名である。しかしこの勝負、武蔵は二刀流を使わなかった。「燕返し!」とわざわざ技の名前を叫びながら打ちこむ小次郎の長刀を木刀で受け、「燕返し返し!!」と叫んだのである。怒った小次郎は「燕返し返し返し!!!」と絶叫してさらに打ちかかる。それを武蔵は「燕返し返し返し返し!!!!」と防ぐ。小次郎はさらに「燕返し返し返し返し返し!!!!!」と、その勝負はさながら子供の喧嘩のようであったと、細川家の記録は伝えている。

 勝負は意外なところでついた。
「燕返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫ぶ武蔵に、小次郎はうっかり、
「燕返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し返し!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「やーい、『!』をひとつ間違えてやんのーっ!」
 こうして武蔵は当代最高の剣客として、名を轟かせたのであった。

巻末クロスワード
タテ一.武蔵が誕生したのは今の○○○○県。
タテ二.宮本家を継いだ武蔵の養子は宮本○○○。
タテ三.宍戸梅軒と同じ苗字の人気アイドルタレントは宍戸○○。
ヨコ1.武蔵がたったひとり、試合を恐れて逃げた相手は肥後の○○○○○主水。
ヨコ2.五輪の書地の巻にいわく、「○○○○○事は足らぬと同じことなり」。
ヨコ3.京の夢○○○○の夢。

     
     
         
     
         


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