飲食店の憂鬱

 ラーメンは危険な食品である。
 美味いラーメン屋がこの世に存在するのと同じくらい、いやもっと多く、不味いラーメン屋が存在するのである。
 そういう店は客が来ず、すぐ潰れるかというと、そうでもなかったりする。
 けっこう繁盛したりもするのである。
 駅前の一等地で、この上ないロケーションを誇っていたりするのである。
 むろん、リピーターは皆無である。
 ひたすらイチゲンさん相手に商売しているのである。
 はじめてこの町を訪れた、商売人やサラリーマンなどが、「時間もないし、ここでラーメンでも食っていこう」と入っていくのである。
 そして無限の悔恨と悲哀をその顔に湛えて出てくるのである。

 むかし、両国の駅前でそんなラーメン屋に入ったことがある。
 会社の人と酒を飲んだ帰りである。
 酒の後というのは、妙にラーメンが食いたくなる。
 しかし両国というところは、ちゃんこ屋は多いがラーメン屋は少ない。加えて十時を過ぎている。駅前で開いているラーメン屋は、そこしかなかった。
 ヤンキーっぽい兄ちゃんにラーメンを注文すると、しばらくして丼が届けられた。
 カウンター越しに丼を受け取ると、思わず落としそうになった。
 ぬるっとしていて、手が滑りそうになったのだ。
 脂でぬるぬるしている丼は、あまり触りたくない。
 ラーメンは醤油味で、海苔、シナチク、焼豚、葱が乗っている、ごく標準的な江戸前ラーメンだった。見た目は。
 これもなぜかぬるぬるしているレンゲでスープをすくい、口に入れて、思わず吐き出しそうになった。
 ごま油の香りではなく、機械油の香りがする。
 ひょっとしてこの兄ちゃん、間違えて愛車にごま油を入れてないか、燃費は、と他人事ながら気になった。
 スープを吐きたかったが、剃りこみを入れて眉毛のない怖そうな兄ちゃんの前では、そんなことはできない。気合を入れて飲みこんだ。
 機械油が食道を通り抜けていく。私もぬるぬるになっていく。

 スープはダシが肝心だ。うちでは鶏の足を使うとか牛骨がいちばんとか煮干の使い方がコツだとか、いろんな人がいろんなことを言うが、この店では確固たる独自の方針をうち立てたらしい。
 ダシを取らない、という方針だ。
 陳腐な冗談で、ラーメンにゴキブリが入ってると、「ダシを取ったんだろう」というのがあるが、この店ではゴキブリも使っていないと断言できるほど、徹底してダシの存在が感じられない。
 あるいは、その日はゴキブリが捕獲できなかったのかもしれない。

 麺はふつうの市販品を使っているようだが、非常に丁寧な仕事がしてある。普通の店のたっぷり三倍は、茹でるのに時間をかけているようだ。
 箸でつまむとちぎれるくらいに、柔らかくなっている。
 これが豚肉だったら、絶品の角煮だったのだが、惜しいことをした。
 本物の豚肉のほうは、残念ながら箸でつまめた。繊維質たっぷりの焼豚で、なんだか棕櫚の毛を固めて作ったようだ。これなら肉食で繊維を補給するのも容易だろう。口に入れてみると、ほとんどすべてが歯に挟まり、喉を通ったのは僅かだった。歯磨きの代用にもなりそうだ。
 シナチクは思わず血圧が上がるほど塩辛かった。どうやら、塩抜きをしていないらしい。
 葱は涙が出るほど辛かった。こんなに青い葱を、水晒しもまったくせず切るのは、厨房の人もさぞかし辛かったろう。
 ひょっとしたら、ダシを取っていない平板なスープを、シナチクと葱のアクセントで補おうという、絶妙なバランス感覚だったのかもしれない。

 こうして幸せなラーメンタイムは終わった。
 私たちは幸せそうな表情で店を出、出たとたんに表情を大魔神のごとく一変させ、小声でラーメンの感想を語り合った。
「二度と来るもんか」と。

 もっともこんな店は、ラーメンに限らない。
 文豪、司馬遼太郎が、「もっとも味に上下がない」と絶賛したトンカツだって、すごい店は存在する。
 カツ丼を頼んだら、えらく堅いカツだったことがある。よく観察したら、揚げすぎで肉が収縮しており、さらに切ったまま長期間放置していたため、肉の断面が黒く堅く、ちょうどビーフジャーキーのような状態になっていた。堅さもちょうどビーフジャーキーだった。
 カツ丼を頼んで玉葱と卵とご飯だけ食べ、カツを残したのは、はじめての経験だった。

 牛丼はそんなにひどい目にあったことはない。
 吉野家や松屋では、不味い店に当たったことはない。もっともすごく美味い店にも、当たったことがない。
 もっとも、これはどうしたことだ、という牛丼を食ったことはある。
 いくら並でも、それはないだろう、というくらい肉の少ない牛丼を食わされたことがある。
 その日は海が荒れていて、牛肉が荷揚げされなかったのかもしれない。あるいは店長が、私の知らないうちに、「吉野家ではきょうから、牛肉20%オフ!」というキャンペーンを張ったのかもしれない。それにしても、上から眺めて、具よりも白いご飯の見える面積のほうが大きい、というのは、いかがなものか。

 その点、もっとも安全なのはカレーかもしれない。
 カレーの最悪は、「まったく味がしない」というところにとどまり、他の食品のように、「不味い」というマイナスポイントが発生しない、そんな気がする。
 そして、カレーには必殺技がある。
「この店のカレーは、まったくコクがない。ちゃんとダシをとっているのか? 玉葱の炒め方が不充分だ。野菜も煮込みが足りず、ジャガイモに芯がある。カレー粉と小麦粉をいいかげんに入れただろう。ダマが出来ている。しかもルーが少ない。ご飯の炊き方がなってない。べちゃべちゃで、おまけに芯がある。唐揚げカレーを頼んだのに、生の鶏肉が載っているのはどういうことだ」
「ええ、でもうちは、辛いですから」
 カレーは他がどうあろうと、「辛い」というだけで許される。調理の過程でいかなる失敗が生じようとも、辛くしちゃえば大丈夫なのだ。辛くしちゃえば、たいていの客は文句を言わない。
 「辛くない」と文句を言う客はあっても、カレー屋で「辛い」とは恥ずかしくて言えない雰囲気がある。カレー屋で「辛い」、讃岐うどん屋で「固い」、鰻屋で「遅い」、これは飲食業界の三大禁句といわれている。

 われわれの人生も、このように絶対の免罪符を持って渡ってゆきたいものだ。


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